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完璧なもの。

完璧なものとはなんだろう。

例えば、ある晴れた早朝に息を切らせて学校へ走る、黒髪の女子中学生なら完璧だ。トーストなどくわえていなくてもいいし、「やべー遅刻遅刻」とか言わないでもいい。さらに転校生の男子と曲がり角でぶつかる必要はもちろんない。彼女はそれだけで十分完璧であると言えるからだ。

例えば、会社帰りに酔っぱらって帰宅したお父さんなら完璧だ。ただしそれにはネクタイがだらしなく曲がっている必要があるし、その手には小さい寿司折りを携えていなくてはならない。さらに帰ってひと言「うーい、いま帰ったぞお」と口にしたい。眼鏡などずれていたならなおのこと望ましい。くたびれたネグリジェ、頭にカールを巻いた奥さんにうんざり顔で出迎えられ、「部長のバーロー」などとクダをまいたなら盤石だ。さらには玄関先で寝入って鼻ちょうちんなど素晴らしい。

例えば、工事現場の近くの定食屋、作業着で、昼にカツ丼大盛りをかっこむドカチンならば完璧だ。頭髪は短め、体躯は頑健、スポーツ新聞などをのぞき見ながら、店内の小さなテレビにみのもんた。しかしそれらすべては彼には存在しないかのように、食べるに没頭するのがいい。そんな食事の風景をオノマトペにて表現するとするならば、がつがつ、むしゃむしゃ、わしわし、のどれかであろう。そしてその食べる速度たるや極めて迅速でなければならない。ぽりぽりと音を立て、3切れほどの漬物をたいらげたなら、彼には、きついタバコで一服する至福の時間が待っているからだ。

例えばパイプにベレー帽の油絵画家、例えば北鎌倉を着物でぶらつく老人小説家、例えばバナナの皮ですべって転ぶ通行人、ぐるぐる巻きのキャンデーを食べ、ハナをたらした子供たち。0点の答案。はち巻きの受験生。入れ歯を飛ばす老人。魚をくわえて走る猫。

完璧なもの。それは、人が記憶の残像として抱き持つ、虚実さだかならぬ狭間に存在するイメージだ。その納まるべき形に寸分たがわぬ、まるではじめから用意されたかのような想像力のピース。

人はそれを、完璧と呼ぶ。

やぶさかではありません!