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永久ケーキとあなたがくれた言葉

祖母は海の見える病院に長い間入っていた。 私の高校から大学にかけての「行きたくはないけど、行かないといけない」と思っていた場所が祖母の病院だった。

私は自分のことをおばあちゃん子だと思っていたから、祖母から受けた愛情を返さなくてはいけない、みたいな義務感にも似た気持ちだった。

病院の面会時間は決まっていて、夕方になるとゆるいスロープの先の2階の正面玄関は閉まる。でも、1階の通用口からは、そんなに遅い時間でなければ、出入りしても良いと教えられていた。

1階の通用口は、見えない調理室につながっていて、いつでも調理した病院のご飯の匂いがした。今でも調理された大量の食物の匂いを嗅ぐとあの病院のことを思い出す。

病院に行くちょうどいいバスの路線がなかったので、自転車で病院に行っていた。海沿いの病院なのに、堤防が高くて自転車からは海なんて見えない。

堤防の内側に入れるんだけど、止まって海を見た思い出はあまりない。病院の行きは「早く病院に行こう」と思って、帰りは「早く家に帰りたい」としか思ってなかった。そんなにきれいな海ではないし。

病院の先はしばらく行くと、海岸沿いの遊歩道だった。祖母が多少は元気だった頃には何度か母と二人で祖母の車椅子を押してその道を散歩した。

そのうち台風がきて遊歩道が壊されてしまい、遊歩道は通行止めになった。今はもう通れると思うけど。

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祖母は長いこと病院を入ったり出たりしていて。なんとなく、このまま死なないんだと思っていた。

なんというか、ずっと病気のまま病院にいるんだと思っていた。よくなることはないけど、死の一線は超えないんだと。ケーキを半分に、その半分をまた半分、その半分をその半分にと繰り返せば、理論上では永久になくならないケーキのように。ずっとそこにいるんだと思ってた。

私が実家を出てしばらくしてから、海の近くの病院では看護ができないとなった祖母は別の病院に移った。そこは坂の上で自転車で通うには難しい場所にあったので、転院してからは見舞いにあまり行っていない。

その数年後に祖母は死んだ。ああ、本当に人は死ぬんだ。とその時、初めて思った。

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今でも覚えている。

祖母を車椅子にのせて、4Fのナースセンターの前にある公衆電話でから遠方に住む叔母に電話をしたこと。最初は続いていた会話がだんだん短くなっていったこと。病院に行こうと海岸沿いまで行ったけど、どうしても入る気になれなくて家に帰ったこと。見舞いの後、冬の薄暗い通用口を出たら真っ暗だったこと。

「行きたくねー」とか「早く帰りたい」とか、どんな思いで病院に行っても、病室に入ってきた看護師さんとかヘルパーさんが「お孫さんきてくれたよ。よかったね」と祖母に呼びかけたこと。

その時、くすぐったいような「そんないい人間ではないんです。」という、なんかすいませんって気持ちだった。そこで働く彼女・彼らとっては病人に声をかけるの仕事の一環だったとしても、10代の私は祖母にかけられる「お孫さん来てくれて、よかったね」の言葉にちょっと救われていた。

ここで感謝の言葉を並べても、あの人たちには届かないし、入院患者の孫を救うために仕事をしているわけではないのはよーくわかっているけど。私は祖母を誰かがみてくれていることが嬉しかったのです。

おわり

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