見出し画像

おばさんである私と見た目と中身

コミック_001

コミック_002

コミック_003

コミック_004

新しい靴を試し履きすると、ハッとすることがある。

ぽろっと脱いだ、それまで自分の履いていた靴が、すっごくボロい。足の形にボコボコと変形し、紐がまだらに黒ずんでいるヨレヨレの靴。

靴のボロさというよりも、自分が靴のこんなヨレヨレ具合に気がついてなかったことに驚く。そんなことがよくある。

こんな風に、見えてなかったヨレヨレが急に目の前に現れて驚くこと。家では全く気にならなかったのに、日差しの中で見つかるズボンのぬけた膝の白さ。いつ買ったのか忘れた、プリントの文字が薄くなってるしわしわのショッパー。

いつも使っているのに、どうして家を出る前にこのヨレヨレに気がつかないんだろう?

もっと大きな見えないものがある。いつも見ているはずの自分が見えない。いや、見えているんだけど。よくわからない。私は私がどのくらいヨレヨレなのか見えてる?

毎日、自分を見ている。朝・昼・晩、歯磨きをする時に3回。トイレでは毎回まじまじと自分の顔をみたりしないから、まぁ多く見積もって2回。合計最低5回は鏡をみている。

それなのに自分の顔がわからない。新しい靴と履いてきた靴が並んだとき、やっと履いてきた靴のヨレヨレに気付くことができる。でも自分の顔は並べるものがないからどう見えているのか、わからない。比較対象の不足。

鏡に映る私は中年のおばさん。了解。それは知ってる。

鏡に映る私は10年前とは違うけど、昨日とはそんなに変わらない私だ。だからこの私がどのくらいヨレヨレになって見えているのか、歳をとってみえるのか、よくわからない。

で、この鏡に映るおばさんは私にとってはただのおばさんだけど、20代の人にとってはすんごいおばさんなのだ。ここにギャップがあることに、最近やっと気づいた。

オンラインで日本とやりとりをする機会が増えた2020年。必然的に、日本の人と大人数で話す機会が増えた。何度目かの話をしたあとに思ったのだ、「なーんか最近よく喋るようになったなぁ」って。たくさん話して楽しいなぁと思った後に、「あ、私は話を聞いてもらう側に行ったんだ」って思い当たった。

数年前までは、歳上の人の話って、なんとなく「うんうん」って、聞き流していた。口を挟んだら失礼だから話させとこっていう、その感じ。それをやっている役だと思っていた。なのに、いつのまにか、私は聞き流す側から、聞き流される側に回っていたのだ。

気持ち良く話させていただく側の私。うわ・・しんど。

久々にあった同級生(男)の顔に大きなシミがあったり、友達(女)が「コロナで美容院に行けないからと、セルフで白髪染めをした」なんて話をする年齢になった。(白髪染めなんてすごい年寄りがするものだと思ってたけど、体質によっては20代でも白髪が始まる。)若く無いとは分かっている。

仕事をする人は大抵は自分より歳下。そこは気にならなくて、むしろみんなすごいなぁと感心することばかりなんだけど。

戸惑うのは、仕事の外での人との付き合いかただ。

年代の違う人と話す時に、おばさんである私の外側にふさわしい振る舞いとはなんぞや?という疑問が生じる。

自分は大して変わっていないのに、年齢が上がったことで周りからの対応が変わってしまった。40代、大した仕事もしてないお金持ちでもない中年のおばさんとしての振る舞いの正解がわからない。ヨレヨレであるべきなのか、どっしりと構えて迫力を出すべきなのか。どっちもうまくできない。ミニスカートでなくミディ丈で膝を隠せみたいな。

ビジネスおじさんたちのように、「歳下の人と会うときは僕が全部おごりますよー。当然じゃないですか。会ってもらえるだけで学びがありますからー」と言えるだけの懐具合でもない。

もちろん、話したくないと思っている人を追いかけるほどの熱意はないんだけど。

気を使うのも使われるのもめんどう。でも、余程こちらが気をつけていても、気を使われてしまう。敬語x100でもちょうどいい関係なのだ。年下の人に敬語を使わないと「こいつタメ口、使ってえらそうだなと」思われそうで辛い。敬語が、苦手なだけなのに。って言ってみても、そうは受け取ってはもらえないだろう。全方向に対して敬語を。

「まだまだ、頑張らないといけないな」と自分では思っているのに、「そろそろ引退ですよね」みたいにされちゃう感じもある。いやー、40代で引退しますと呟くネット有名人と一緒にしないで。そんな高度な仕事してない。まだまだ働かないと生きていけないし。働くの好きだし。

現状をかなりなんとかしたいんですが。と思っていても、余裕があると見えるから、焦りは伝わらない。いや、私が焦ってるのが見えてもいいことないなって思っているから、見せてないか。

ただただフラットに人と接したい。が、そこには年齢という壁。おばさんという靴を履いた私。私は普通でも、いるだけでおばさんという存在が彼らには圧になる。わた私は壁になりたい。いや、なりたくない。

うーん。ここは丁寧な言葉と態度を使うことしか、対応の方法がないのかなぁ。とか、おばさんの正解を考えて行動する。そしてあれこれが面倒になる。

ああ、だから日本のおばさんは、態度の良さを、腰が低ければ低いほどほめられるのか。納得。そうしないと、誰とも話ができないから。

あれ、靴の話はどこに行ったんだろう。




Twitterもフォローしてください!https://twitter.com/shinoburun