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誰にだって話さないことはある。8/6なので。

祖父母が広島で被爆しているから、私は被爆3世と呼ばれる人になる。被爆者の持つ被爆者健康手帳(おじいちゃんは被爆手帳って呼んでた)はもっていない。あれは実際に被爆した人、もしくはお腹の中で被爆をした人しかもらえないから。

広島に生まれて育つということは、それだけで何らかの意味を与えられる。私たちの多くはヒバクシャの子どもで孫だ。それによって差別を受けたとか、嫌な目にあったとかはない。でも、差別はあったのだ。

日本人同士で、私が広島出身だというと、カープとかお好み焼きとかって楽しい話になる。だけど、外国で、外国の人に私の出身地を答えたら、「ああ(聞いてはいけないことを聞いてしまった」というような空気になることが多い。

そんな時はその微妙な空気を打ち消すように、「祖父も祖母も被爆後も長生きしたし、広島は今ではきれいな街なんだよ」と言う。

「今では」に、言い訳するような引っ掛かりを感じながら。

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大学に入るまで知らなかったけど、広島の平和教育は他の地域とは違うらしい。

毎年、夏が近くなると広島の子どもだった私は「ヒロシマ」について学んだ。カタカナのヒロシマ。

白血病で死んだ女の子のために折り鶴をおり、慰霊碑を見に行き由来を調べる。被爆者の方の話を聞いたり、平和祈念資料館に行ったりする。もちろん図書室にははだしのゲンが全巻そろっている。

大江健三郎だったかが、「ピカッとした光を…」みたいなことを言えば誰でも被爆の語り部の真似ができる、みたいなことを書いていたのをどこかで読んだ。ほんとにそれだなと思ったくらいに、被爆体験を聞くこと、戦争に反対します!と言うことに関してはスレた子どもだった。

8月になると体育館で開かれる平和集会で「過ちは繰り返しませんー」「平和の大切さをまなびました。」と、はいはい繰り返せばいいんでしょって思ってた。妙に語尾をのばす、模範作文の発表のような、落ちのない、聞き古した意見を大声で繰り返していた。

そんな小学生だった頃。

「家族もしくは身近な人に戦争のことを聞く」という宿題がでた。(もしかしたら、宿題ではなく自由研究だったかったかもしれない。記憶はあいまい。)7月末には大体こういう宿題があった。

とにかく、そんなことを聞ける相手は我が家には祖父しかいなかった。その頃の祖父は70歳になったくらいだった。

「おじいちゃん、原爆のことを教えて。」とでも聞いたのだろう。半袖の下着に薄い半ズボンの祖父はそれを聞くと「分かった」と答えて、2階の自室に行ってしまった。

その場で宿題のプリントにさらっと書けるような、できれば5行くらいの回答が欲しかったのに。祖父が2階の部屋に行ってしまったのでがっかりした。

その翌日だったか数日後だったか、祖父は数枚の便箋を私に渡した。そこにはボールペンの読みにくい字で、彼の被爆体験が綴られていた。

昭和20年8月6日は広島駅の近くにいたこと。その瞬間、8時15分、は路面電車に乗っていたこと。その後、歩いて家まで帰ったこと。その日の様子がびっしりと便箋に書かれていた。

何が書いてあったかこれ以上覚えていない。

その便箋を読んで泣いたとか、祖父の過去に思いをはせたとか、今でもその便箋は手元にあります。とか続けられるなら美しいんだけど。現実はそうではない。

それを受け取った時、真っ先に思ったのは、「長すぎー。こんなのいらない。」だった。迷惑だと思ったのだ。

その長すぎる便箋を小学生の私は、どこにも提出しなかった。

宿題の提出用にまとめ直すのも面倒だし、これをそのまま出すとやる気にあふれて感が恥ずかしい。あの頃の私には、平和学習を真面目にするなんてダサいことだったのだ。

祖父の被爆体験を綴った便箋は提出されないまましばらく手元にあった。でも、出さなかったことが後ろめたくて、しばらくのちにバレないようにこっそり捨てた。

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こんなことを思い出したのは、この記事を読んだから。

「広島は被爆してない人が行って騒ぐところなんだ」 語りきれない原爆体験を抱えた学者の思い

https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/maruyama-1945?utm_term=.wteRR3oNN#.ejv55N0MM

今では耳も遠くなり、込み入った話もできなくなった祖父と、戦争の話はほとんどしたことがない。祖父は歴史好きなおじとはよく昔の話をしていたけど、それは戦争の話というよりは歴史と地理の話だった。

祖父が戦場で広島で何を見たのか、何をしたのかを家族に話すことはほとんどなかった。話せないものを見たのだろう。近い家族は誰もその事を聞かなかった。祖父はいつかはまとめて書かないとと夏になるとよく言っていた。(原爆祈念資料館では体験記を集めている。)

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祖父の記憶を何度でも、私がわかるまで話してほしかったとは思わない。言い訳ではないけど、私はあまりにもただの子どもだった。

過去を継承する。なんて簡単に言うけど難しい。記憶は薄れ、体験者は遠からず死んでしまう。私の今の常識をあの頃に当てはめて、「もっとXXができたはず」と賢しげにコメントしたって意味がない。日本が加害していた歴史も知っている。

それでも。

毎年8月6日になると、8時15分に黙祷して、捨ててしまった便箋を思い出す。世界の平和を祈っているのかもしれない。

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