見出し画像

あした、7月になるっていう噂だよ

ここ8年くらい、蒸し暑くて雨が降る季節に日本に帰っている。明日も雨っぽい

1軒だけ残った雑貨店と大通り沿いにコンビニのある、どうってことのない住宅地にある実家。

1年に1度帰ると、近所の家は歯が抜けて入れ替わるように、新しい駐車場があるタイプの3階建の家に変わる。

そのよく考えられた間取りの家の前には、電動アシスト自転車が止まり、子供がビニールプールで遊んでいる。こうゆうのって幸せなんだろうなぁとか思いながら前を通る。

で、そういうずっと続きそうな幸せで退屈なプールの光景も子供が小学校後半になるともうない。実は10年は続かないタイプの幸せなのだ。

近所に住んでいたよく分からないおじいさんとかおばあさんとかは、どこかの施設に入ったのかそれとも亡くなってしまったのか。聞けば教えてくれるんだろうけど、聞くのをいつも忘れてしまう。

帰国して1−2週間は去年と変わったところが目につくけど、その山を越えると変わったところは見えなくなる。これが慣れというものなのだろう。これは、イタリアに帰った時も同じ。

ゴミ箱が町にないこと(と書きながら、コンビニで買って食べたチーズケーキの袋をポケットに突っ込んだままにしていたことを思い出す)、バスとか電車とかトイレに注意書きがたくさん貼られていること。湿度で髪が爆発すること。

6時になってもおじいちゃんはもう帰って来ない。母はおばさんよりもおばあさんに近づいていく。

どっちがいいですか?問題というのがあって。

どこかのことを話すと「じゃあそっちにすればいいのに」みたいな話になることがある。それは「そんなにチョコレートが好きならチョコレートだけずっと食べていればいいじゃない」みたいなことで、全然意味がない。

電子書籍の便利さを愛しているけど(←使ってみたかった表現)、お風呂で何度も読んだ文庫本読むときの「濡らしたらどうしよう」っていうちょっとしたドキドキも捨てがたいじゃないですか。

でもって、実際に買ったばかりの文庫本を風呂に落として凹む。

例えばイタリアの良いところもあるけど、日本の良いところもあるし逆もまたある。歳を取ることにも良いこともあれば、悪いこともあるのと同様に。極論だったり、わかりやすかったりすれば人はシェアしたくなるんだろう。

じゃあ、それ以外のシェアされない些細な思いはどこに消えるんだろう?もしくは残るんだろう?と考える。日記もかかない私の記憶から消えてしまうもの。

カメラロールに残る写真みたいに、クラウドに勝手に保存してあるのだろう?

中学生の頃の憤りとか自転車で走るときの爽快と倦怠の間みたいなのとかそういうもの。

寂しさとか楽しさとかは誰かと比べてもよくわらないよね

おわり

Twitterもフォローしてください!https://twitter.com/shinoburun