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間違えのない世界の生きづらさを知っているのに、なぜ間違えた人を笑うのか

「間違えない事」がそんなに素晴らしい事なのだろうか。

正しい方法で正しくものごと行うこと。ものの値段(もっというなら高いものの値段)がわかること。これを重視しすぎなんじゃないかなと思う。東大生の失敗を笑いながら、芸能人の格付けをする。なんなんだろう?

答えが決まっていて、それを間違えたら笑われる、というのは本当に面白い事なんだろうか?

自分の常識が、別の場所では非常識になるという経験は誰にでもあるとおもう。バスの乗り口だって町によって異なる。運転手側から乗る街もあれば、真ん中から乗る町もある。

大切なのは、「わからないので教えて」と言える安心感を持てることだと思うのだ。誰かに方法を聞いても、邪険にされない世界。それはどうやったら作れるんだろう?

間違った事をしている人のひどさばかりがモンスターなんとかだ!と大声で言われる世界で、ちょっとした事を誰かに尋ねる勇気が削がれているような気になる。

全てを知っている大人である事が前提に作られている社会では、ちょっと病気をしたり、手がかかる存在がいたりするだけですべてがスムーズに進まなくなる。

困る人がいないことを前提に社会が作られてるのはやっぱりおかしいと思う。

例えば私は外国にいても分からないことがたくさんあるし、日本に帰ってもシステムが分からないことが多々ある。

子供には分からない分からないことを「ワカラナイから教えて」って聞ける世界であってほしいと思う。そのためには、大人だって、「分からない」「困っている」が聞ける世界でないと困るのだ。

わからないことを聞ける状態があたりまえなんだよ。それは優しさなんかじゃない。それがデフォルトでないと。わからないことを馬鹿にしているような世界には、いずれ首を締められる。

まとまらないけど、まとめ。

最後に残るのはちょっとした親切。「ちょっとした」っていうのがポイントな気がする。

過去ノートにも似たような事を書いていたことを思い出してのエントリー。



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