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道草を楽しめ①

こんにちわ

はじめましての方ははじめまして

シノサンです。

軽く自己紹介すると
映像監督をしたり写真を撮ったりしています。そして生粋のサウナジャンキーです。

去年まではレペゼン地球専属として
数えてみるとMusic Videoだけで41本を制作してきました。

今回、noteを始めるにあたって自己紹介代わりに
初めて自分の人生を振り返ってみようと思います。
少し長くなるかもしれませんがお付き合いください。

そんじゃいきますか!

僕は茨城県の電車が多い時で1時間に1本しかないような田舎の平凡で平和な家庭に長男として生まれ育ちました。おじいちゃんっ子でじいちゃんがいないとどこにも行きたくないと駄々を捏ねていたらしい。
親としては複雑だったろうなと大人になってからは思います。



幼稚園生の時の夢はぬ〜べ〜になること。
きっとオバケが怖かったんだろうな。

小学校の教科書に漏れなくパラパラ漫画を書いていました。

中学ではなんとなくやっていた野球部に入り
県大会3位のチームでセカンドの補欠をやっていました。


カメラに映る位置を抑える能力はピカイチらしい。
中学校はガムの包み紙が校舎に落ちていただけで全校集会を開かれるような学校で真面目に過ごしていたと思います。

割と記憶力はいい方で幼稚園ぐらいからいろんな思い出を覚えていますが
長くなるのでそれはまた別の機会に。

高校生にあがりキラキラしてかっこいい!という理由で
突然にギャル男へ。


駅前でパラパラを踊り、夏は川で泳いでパンツ一丁で原チャを走らせていました。
パラパラが世界一かっこいいと思っていた時期でもありますが
パラパラはあんまりかっこよくないよね。

両親に高校だけ出てくれたら自由にしていいと言われていたので
高校には通いました。1限に集中していた化学の授業はあと一回遅刻で留年というスレスレの中で過ごしました。

そんな中ギャル男の聖地『渋谷』に旅行で来る機会がありました。
安い言葉になりますが当時の渋谷は本当にキラキラしていました。
『109』で働く同世代の人間がめちゃくちゃかっこよく見えたんです。
こっちは田舎で毎日髪の毛をセットしてお洒落をしても
結局人に見られることなんてほとんどないんですよ。街にはおじいちゃんおばあちゃんしかいないし。

なんとなく自分が将来ここで働いている姿が浮かんだ僕は
その瞬間に上京を決めました。

そこからは早かったです。
当時好きだった109menのお店に
突撃して将来ここで働きたいと直談判。

卒業の時期にまた来てくれとあしらわれたので
高校3年の冬本当に履歴書を持って行きました。

そしたらね、受かったんですよ。面接。

みんなが卒業前の最後の春休みを謳歌する中
僕は一人、東京へと向かいました。
知り合いも一人もいない東京への上京でしたが
不安はなかったです。

当時渋谷が盛り上がっていたこともあり仕事は大忙しでした。
多い時で月300時間ぐらい働いてました。
14連勤の間にクラブでオールをしても
10代のうちはなんとでもなりました。

時は流れ2017年 当時アパレルで店長として働いていたのですが
『本社に行く気もないし、俺ここからどうしようか?』
やることもなかった僕はとりあえず動画編集をやってみようと思いました。

動画と言ってもYOUTUBEの編集です。
当時YOUTUBEを始めていた友人の編集を
カットして、テロップ入れて、スローにして
YOUTUBEを見ながら勉強しました。

仕事終わりに徹夜で何日もかけて編集して
貰えるギャラは1000〜3000円でしたが
勉強しながら金もらえるのは最高だな。

そんな生活を数ヶ月続け、また一本、また一本と動画を作るうちに
気づいたんです。

『この仕事...めちゃくちゃ面白くない』
『自分がしたことで他の人が幸せになればいいんじゃなくて
自分も幸せじゃないと意味ないじゃん』

そう思った僕はすぐにYOUTUBE編集を請け負うことを辞めました。

ただ、せっかく覚えた編集を何か活かせないかと考えていたとき
当時instagramで流行し始めていた旅行の思い出を1分ぐらいにまとめた動画を友人が作り始めましたんですよ。

『これだ!!』

と思った僕はカメラを買い
動画を撮ることを始めました。

タイミングよく社員旅行でハワイに行くことが決まっていたので
『よっしゃ、ワイのデビュー作はハワイやで!!』
なんて息巻いてましたね。初日にサンダルで靴擦れするんですけどね。

ちなみに最初に作った作品がこれです。

めっっっっっっっっっちゃ恥ずかしい。笑

ここから映像作りに熱中した僕は
いっそ仕事を辞めて留学で海外に行こう。
海外の映像撮りまくろうと会社に退職の意を伝え留学の準備をし始めました。

退職の時期も決まった頃、友人のインフルエンサー事務所から『一緒に映像事業部の立ち上げをしてほしい』と言われ、『国内で映像できるならそれはそれでいいか、立ち上げ楽しそう!』ぐらいの感覚で僕は日本に残ることに

そこからまもなくして

『Music Videoを制作できる人間を探している人がいるんだけどやってみる?』という話が舞い込んできました。

『できます』

MV制作なんてやったことないけど僕は2つ返事で承諾しました。

これが後に日本、いや世界を大きく騒がせる『DJ社長』との出会いです。

続く__

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