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八幡山城跡と近江八幡

 昨年の2月。今年よりも随分と寒い冬でしたが、近江へ行きました。近江は、猿楽の発祥の地であり、能楽と深い関係があります。また、戦国時代には「近江を制するものは天下を制す」と言われ、武将たちが天下統一のため築城をくり広げました。近江を制したのは、秀吉でした。
 秀次は名古屋市出身。母は秀吉の実姉、とも。実子のいない秀吉の養子となり、天正13年(1585)8月、近江に43万石を与えられました。田中義政が右腕となり、山内一豊、中村一氏、一柳直松らに支えられ、八幡山に築城を開始しました。彼が在城していたのはわずか5年。天正18年7月、小田原落城の論功で清州城主となり、城を去ります。その後、京極高次が城主を継ぎました。八幡山城を防衛する目的で作られた八幡堀を中心に、近江八幡の城下町はその後も栄え、江戸時代には近江商人の発生、発展する原動力になったのでした。


城下町


 しかし、繁栄の元を築いた秀次にはその後の哀しい運命が待ち受けていたのです。
 文禄2年(1593)秀頼誕生。諦めていた実子が生まれたことで、秀吉は秀次を疎み出します。そして…文禄4年(1595)、秀次は謀反の罪を着せられ、関白の位を取り上げられます。やがて追い詰められた秀次は切腹しました。悲劇はそれには留まらず、秀次の子女、妻妾三十余人が、京の三条河原で惨殺されました。
 秀次が寵愛した側室に、駒姫という人がいました。父は最上義光、いとこは伊達政宗という名門。15歳で東北から京へやってきた数日後に秀次は高野山へ追放されたのです。父、義光の助命懇願は聞き届けられず、三条河原に連行され、斬首されました。生後1ヶ月だった菊だけが赦されましたが、のちに大阪夏の陣で20歳で処刑されています。八幡山城は秀次切腹後に直ちに廃城となりました。
 秀次の死後、母ともは、出家して日秀尼となり、京都の村雲に瑞龍寺を創建し、息子の菩提を弔いました。1961年にこの秀次の居城跡に移転されました。
 

瑞龍寺


 秀吉は、処刑した39名(すでに自害していた正室も含めて)の亡骸を三条河原に埋め、その上に秀次の首が納められた石櫃を置いて塚として「秀次悪逆塚」と文字を刻ませました。今、その上に菩提寺が建てられているそうです。そのお寺は瑞泉寺。実は、今、クラウドファンディングが行なわれています。
 今年は秀次と一族の430回忌にあたり、京都国立博物館で「豊臣秀次と瑞泉寺」の開催が決まりました。しかし、展示する寺宝の破損がひどく、展示が難しいのだそうです。そのため、この寺宝の修繕、また、企画展をきっかけとして歴史と伝えるためのクラウドファンディングです。能楽師、安田登氏も賛同されており、オリジナル能の公演も計画されているとか。また、このお寺の住職さんは、世界的なイラストレーターでもあられます。リターンがとても豪華!もし、興味がありましたらぜひご協力を!
 

#京都瑞泉寺 #豊臣秀次公430回忌 #READYFOR #クラウドファンディング


 八幡山城へはロープウェイで山を登っていきます。ロープウェイ入口には、日牟礼八幡宮があります。近江「八幡」の名の由来となった神社で、八幡様、と言われています。

日牟礼八幡宮門


境内には能舞台がある

観世流『日觸詣(ひむれもうで)』が神社の名の由来だそうです。どんな能だろう…

ロープウェイで八幡山へ
結構高い山…当時は足で登ったんだろうか??
秀次館の石垣が残る
瑞龍寺入口


入口門
石碑


美しい手水台


城下を見る

 再びロープウェイで下って、城下町を散策。

八幡堀
堀の両端を琵琶湖と繋いで運河とした
城下は碁盤の目状に町割りされ、町並みは今も残る

 八幡城と城下町の建設を急ぐように秀吉に命じられた秀次は、安土城下町を移転させて、町の人には楽市楽座の特権を与えました。上下水道も完備された先進的な町でもありました。
 このように、秀次は先進的な知識を取り入れながら、計画的に物事を進めていくことのできる指導者であったようです。戦争時よりは、平和時に実力を発揮するタイプと思われます。彼がもし生きていれば、その後の豊臣家の治世は磐石となり、秀頼も死ぬことはなかったのかもしれませんね。
 

参考


近江八幡市立資料館
パンフレット。かなりすぐれモノ。

 そのうち、京都瑞泉寺にお詣りに行きたいと思います。