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澪標 11

 

 今にも掴みかかってきそうな鉛色の空の下、錆浅葱色さびあさぎいろの海が躍動していた。暴力的な勢いで寄せてくる波は、波消しブロックに勢いよく乗り上げ、無数の白い泡を生んで帰っていった。

 空も海も鳴っていた。海は、そこで生まれ、消えていった無数の生命を飲み込み、むせ返るほどの命の匂いを放出していた。

 太古から繰り返されてきた剥きだしの自然の営みがそこにあった。畏怖を覚え、体の芯が熱くなった。

「私たちも、海から来たんですね」強風に負けじと声を張り上げた。

「全ての生命は海から始まったんだ……」あなたの声も、いつもより低く太かった。

 あなたはポケットに手を入れたまま、肺を洗うかのように深呼吸した。几帳面に巻かれたバーバリーのマフラーの裾がたなびいた。

「初めて見ました。冬の日本海……」寒さで声が震え、風に飛ばされていった。

「あなたが怖がらないのに驚きました。今日は特別荒れていますから」

「怖くはありません。原初に還っていくようで、安らぎに似たものを感じます」

 あなたは、そんな私を見て、かすかに目を細めたように見えたが、乱された髪が、表情を覆い隠してしまった。

「あなたの原点が、ここにあるんですね」この荒々しさが、あなたの奥底に潜み、根幹を支えているのだと、ここにきてはっきりとわかった。

「子供の頃、冬になると父が僕と弟をここに連れてきたんです。人生は航海だ。荒波に飲まれずに進める男になれと言われました」

「ここには、よく来るんですか?」

「何かを決めるとき、ここに来て考えることがあります」

「いつも、あなたはここから船出するんですね」

 あなたは口角を微かに上げた笑みを見せ、砂浜を歩きだした。

 ここから漕ぎ出したあなたは、選んだ航路を頑ななまでに守って進んできた。そこから、少し外れることはあっても、再び戻って進み続ける人だと思った。

 あなたは砂浜に力強い足跡を残しながら進んでいった。黒いコートの裾が、風に煽られてめくれ上がった。

 あなたが振り返り、私に手を差し伸べた。私は乱れたおくれ毛に視界を遮られながら、あなたに向かって歩いた。

 初めて手をつないで歩きながら、奥様とここに来たことがあるのだろうかと考えた。


 不意に立ち止まったあなたが、つないでいた手を離し、私を強風から守るように立ちはだかった。

「あなたは、僕との人生に船出する覚悟はありますか?」

「どういう……、意味ですか?」強風と息苦しいほどに高まってくる鼓動で、喉元が締めつけられていった。

「今すぐとは言えませんが、僕はあなたと新たな航海に乗り出す覚悟があります」

 波音も吹きすさぶ風も、音を失って私の身体を通り抜けていった。私の中でだけ、世界のすべての音が消え、あなたの言葉だけが木霊していた。

「本気で言ってるんですか?」

 あなたが、軽はずみでこんなことを口にする人ではないことは、十分すぎるほどわかっていた。だが、確かめずにはいられなかった。

「本気でなければ、こんなことは言いません」あなたは砂浜を強く踏みしめ、毅然と立っていた。

「あなたが、病気の奥様と息子さんを捨てられるわけないじゃないですか! そんなことを言ったら、奥様がどれだけ苦しむかわかって言っているんですか? 病気が悪くならないわけないじゃないですか! 正気だと思えません!!」

 あなたの気持ちを遠ざけてしまうことに絶望を感じながらも、目をそらすことは許されないと思った。

「妻と息子への経済的な援助は続けます。息子の父親としての役割も果たし続けます。大学に入るまでは見守りたいので、2年以上後になると思いますが」

 具体的な計画を耳にし、あなたは本気かもしれないと思った。全身に鳥肌が立ち、頭の芯が痺れるような感覚に襲われた。

「私があの映画を見て……、あんなに泣いたからですか……?」

 あなたは大きく首を振った。

「だったら、どうして、急にそんなことを言うんですか? あなたは、奥様と息子さんを捨てて、平気で生きていける人ではないはずです!! 何があなたをそう言わせたのですか?」

「ここしばらく、妻が火遊びをしているんです。恐らく、病院で出会ったか、同窓会か何かで再会した男でしょう。毎日、目を輝かせてメールで連絡をとっています。高価な服や化粧品を買い、美容院やらエステやらを予約し、お洒落をして出かけていくのを見せられて、ずっと自分を支えていたものが切れてしまったんです。まあ、ちょっとした火遊びか、片想いなのでしょう。恋ができるほど回復したことを喜ぶべきなのは、十分に理解しています。ただ、僕が、こんなに愛おしいあなたを悲しませてまで、家族を守っているのにと思うと……!!」

 一時的な怒りか嫉妬のように思えた。だが、18年ものあいだ、奥様を辛抱強く支えてきたからこそ、それが糸を切ってしまったことも理解できた。

 あなたは、元の義務感をかきたてようとしても、寄せ集めようとしても、建て直そうとしても、不可能なところにまできてしまった。あなたをそこに追い込んだ要因に、私の存在があると思うと、その責任が全身の激痛に近い衝撃で落ちてきた。

「あなたは……、気持ちがおさまったら、また戻っていくのでしょう……?」

 乱暴に両肩を掴まれ、あなたの顔が至近距離に迫った。

「あなたはどうなんです!! こんな面倒な男と、荒海に航海に出るのは嫌ですか? このままの関係を続けるほうが気楽でいいですか?」

「嫌なわけないじゃないですかっ!! あなた以外、考えられません!!」私は悲鳴のように叫び、あなたの胸に崩れ落ちた。

 強風に煽られながら、砂浜に膝をついて唇を貪り合った。あなたも私も、狂っていると思った。だが、恋は人を狂わせる。みな、多かれ少なかれ恋の熱に浮かされているから、交際したり結婚したりできるのだ。狂っていなければ、人生を一人の相手に捧げる結婚などできるはずがない。それなら、狂った船に乗ってみようと覚悟を決めた。

               ★

 あなたが予約してくれていた旅館の部屋で、目元と額のしわが目立つ仲居さんがお茶を淹れてくれた。深い眼差しに、数多の宿泊客を観察してきた洞察力が垣間見えた。許されない関係だと見透かされているようで、彼女が出ていくまで、座布団に正座したまま身動きできなかった。

 お茶を飲み終わったあなたは、空き家になっている祖父母の家に風を入れてくると、乗ってきたレンタカーで出ていった。夕食までには戻ると言ったので、それまで何をしようかと考えた。

 長時間、強風にさらされていたのに、全身が火照っていた。ベッドが2つ置かれた和洋室には、道路を挟んだ海岸から、打ちつけるような波音が聴こえてきた。 

 身体を休めようと清潔なベッドに入ってみたが、高ぶった神経も、激しく駆け巡る血潮も、眠らせてくれそうになかった。あなたの奥様が、今にもドアを叩くのではという思いが不意に芽生え、全身が硬直した。布団に潜り込み、そのまま、体を強張らせて波音を聞いていた。体が温まるにつれ、押し寄せてくる眠気に飲み込まれながら、冬の荒海が、あなたと分かち難く結びついていった。

 目が覚めると、海に夕日が沈むところだった。しばらく見とれていたが、体の火照りが冷めてきたようで、ぶるっと身震いした。1階に大浴場があったことを思い出し、おりてみることにした。階段をおりているとき、屈託のない笑顔を見せながら、寄り添って歩く20代のカップルとすれ違った。眩しすぎて目を伏せてしまった。私たちには、あんなふうに純粋に笑える日がくるのだろうか。世界のすべてに後ろ指を指されている錯覚に囚われ、廊下の端を俯いて歩いた。

 すれ違った年輩の仲居さんに、フロント前に柄入りの浴衣を用意してあるので、よかったらどうぞと笑顔で声を掛けられた。嫌みのない笑顔に救われ、お礼を言ってフロントに足を向けた。並べられた浴衣の何枚かを吟味し、上品な浅葱色あさぎいろのものを選んだ。前に見た映画で背の高い女優さんが着ていて、とても美しいと思った色に近かった。

 大浴場に、年輩の女性2人しかいなかったことに安堵した。体を洗ってから、やや熱めの湯に小さくなって身を沈めた。熱い湯にいくら浸かっていても温まったように思えず、爪先からつむじまで冷えている感覚が抜けなかった。

 湯から上がり、浴衣をまとってみると、思ったより色鮮やかで、着る人を選ぶ色だった。小柄で地味顔の私が着こなせているか心許なかった。据付のドライヤーで髪を乾かし、アップにしようと思ったが、少しでも顔が隠れるように下ろしてしまった。おずおずと廊下を歩いていると、さっきの仲居さんとすれ違い、「とてもよくお似合いですよ」と言われた。ぎこちない笑顔をつくってお礼を言い、逃げるように部屋に戻った。

 夕食の時間が近づいていたが、あなたは戻っていなかった。勢いを増して迫ってくる波音を耳にしながら、髪をアップにしているとき、あなたはさっき言ったことを後悔して、戻れなくなったのではという思いが湧いてきた。全身からさっと血の気が引いた。探しにいかなくてはと、立ち上がったとき、忙しないノックの音がして、ドアが開いた。

 入口に立ったあなたは、時が止まったように私を凝視していた。初めて会ったときの眼差しと似ていた。

「きれいだ……」

 あなたは、おずおずと歩み寄ってくると、ファーストキスをする少年のようにぎこちなく唇に口づけた。ためらいがちに私を抱き寄せ、うなじに顔を埋めた。

「戻ったらあなたがいなくて、難しいものを抱えた僕が嫌になって出て行ってしまったんじゃないかと必死に探したんです……」

「私も怖かったです。あなたが後悔しているんじゃないかと思って……」

「後悔するくらいなら、最初から言いません!」

 互いの気持ちを確かめ合うように、痛いほどきつく抱き合った。

 いずれ冷める夢でもよかった。あなたが、一時でも、奥様と別れて私と一緒になりたいと思ってくれただけで十分だった。

              ★

 海の幸づくしの夕食が並べられ、2人の仲居さんが下がると、ようやく肩の力が抜けた。浴衣に半纏を羽織った私とあなたは、夢中で箸を動かした。

 最初に食べたのどぐろのお刺身は、東京で食べたものとは脂ののりが違う気がし、思わず笑顔になるほど美味しかった。あなたに尋ねると、養殖ではなく、天然なので、脂ののり方が自然なのだろうと言われた。

 海鮮鍋に入った牡蠣を見て、あの宮島から1年経ったことを思い出した。

「宮島で食べた牡蠣、覚えていますか?」

「もちろん。生牡蠣も、焼き牡蠣も、牡蠣ご飯も最高でしたね」あなたは、目元を緩め、猪口に注いだ地酒を口に運んだ。

「また、一緒に行けますか? 今度は、着物をレンタルして、あの橋の上で写真を撮りましょう」

「いいですね。きっと、あなたは輝かんばかりに美しいでしょう。今日の浴衣姿も、見とれてしまいました」

「それなら、今度は浴衣を着て夏祭りに行きましょう。花火も見たいです」

「じゃあ、来年は長岡の花火に行きましょう。1945年の長岡大空襲から2年後に始まった花火です。8月1日に祭りが始まり、空襲が始まった22時30分に慰霊の花火打ち上げがあり、2・3日に本格的に打ち上げられます。僕は子供の頃から何度も見ていますが、あなたにも見せたい」

「はい。長岡大空襲の慰霊の花火のことは祖母から聞いたことがあります。長岡が空襲に遭ったのは、山本五十六の故郷だったからだとか」

「それは僕も聞いたことがあります。山本元帥の思い、空襲で犠牲になった方々に改めて思いを馳せ、平和の尊さを考える機会になりますね」

 明日さえ不確かな私とあなたが、一番遠い季節の風物詩である花火の約束をすることが滑稽だった。それでも、私は約束を重ねたかった。

「花火と言えば、10月にある土浦の全国花火競技大会はどうですか? 大学の頃、土浦出身の友人と見に行ったんです。冷えた空気で澄みわたった空に、これでもかと打ち上げられる花火を一緒に見たいです」

「10月では、寒くて浴衣では出かけられないですね。でも、冬の花火というのは風情がありそうで、そそられます」

 人目を避けて会うのも、奥様に絶対に知られてはならないのも、以前と変わらなかった。だが、この日を境に、次の約束が自信を持ってできるようになった気がした。


 夕食が済むと、2人で広縁に立って真っ暗な海を眺めた。頭上には凍えそうな月が浮かんでいた。遠くに瞬く漁火が美しかった。

 あなたは、「今日から2人で航海に出ましょう」と私の肩を強く抱いた。この先にある困難を思うと、怖くないと言えば嘘だった。だが、明日世界が終わっても悔いはないほど幸福だった。

 その夜は、互いの決意を確かめ合うように、深く交わった。打ち付けるような波音と風のうなりと共に、あなたは私のなかに深く刻印された。私の全身は、爪先から髪の毛まで、あなたに愛されることで存在意義を見出した。