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ピアノを拭く人 第3章 (1)

 温かい爽健美茶が、本社での仕事で強張った身体に、じんわりと染みわたる。彩子さいこは、緊張がほどけ始めた身体を久々に乗る新幹線のシートに委ねた。微かに感じる振動と、車体が風を切る轟音を感じながら、彩子は軽く目を閉じた。
 入院中のとおると電話で交わした会話、送られたメールの内容が、時系列を成さずに浮かび、彩子は暫しそれらとの戯れを楽しんだ。入院中は、連絡が密だったので、知らなかった彼の稚気、仲間のエクスポージャーと儀式妨害を支えることで新たに芽生えた自信などを知れて、今までよりも彼を身近に感じられた。そして、彼の中で、自分がどんな存在であるかが、はっきりと言葉にされ、彩子を幸福にした。


 強迫症からの回復の道を歩んでいる透と歩調を合わせるために、彩子は自分も自信を持って仕事と向き合っていたかった。

 だが、新型コロナウイルスの感染拡大は、試験運営にも変化の波を起こした。それが、静かな水面に投げ入れられた小石のように、彩子の胸に波紋を広げていった。
 
 彩子の会社が受注していた試験は、受験者を会場に集め、試験官が監督する試験が中心だった。オンライン試験も実施されていたが、テストセンターなどの特殊会場で行われる試験や、試験中の資料参照が可能な専門性の高い試験などに限られていた。
 しかし、新型コロナウイルスの流行は、感染拡大のリスクが高い会場試験から、オンライン試験への移行の流れをつくりはじめた。本社は、大手通信会社と共同で、オンライン試験監督システムの開発に力を入れていて、彩子もチームの一員だった。
 今日は、サンプル受験者の協力のもと、システムの運用テストを実施する日だった。チームの一員である彩子は、不測の事態に備え、他の開発スタッフとともに本社で固唾を呑んで見守っていた。
 本人確認のための顔認識の精度向上など、課題は見つかったが、大きな問題なく運用できたので、上層部はご満悦だった。チームは実際の運用に向け、急ピッチで改善を進めることになった。

 

 彩子が改善点を洗い出す会議を終え、本社の入っているビルを出ようとしたとき、ラウンジから飛び出してきた鈴木に呼び止められた。
「やっぱり、彩子だ。超久しぶり! 髪、随分伸ばしたんだね。そうそう、このあいだは、本当にありがとう」
「いえいえ、久しぶりに現場に入れて気が引き締まったよ。こちらこそ、ありがとう」
 鈴木は、彩子の腕をとって化粧室に引き入れ、声を落として尋ねた。
「オンライン試験監督システムの件で来たの?」
 同期とは言っても、どこまで情報を共有してよいかわからず、彩子は戸惑った。
「そうだけど」
 数室しかないフロアを借りた本社なので、各自がどんな動きをしているかは、おおむね把握できる。今日は通信会社の担当者も来ていたので、彼女が知っていても不思議ではない。
「運用テスト上手くいったんだってね」
「すーちゃん、よく知ってるね……」
「そりゃ、知ってるよ。私、営業の主任だし。さっき、すぐにオンライン試験監督システムのパンフレット作って、クライアントに売り込めって指令が下ったんだよ」
「そうなんだ。大変だね」
「うん。地方事業所にも、近いうち、パンフレットが送られて、売り込みの指令が出ると思う。彩子は、開発で大変なのに、営業も増えて忙しくなりそうだね」
 鈴木は、ポーチからスプレータイプの保湿美容液を取り出し、マスクを外して吹き付けた。


「オンライン試験を希望するクライアントが増えると、いまの登録スタッフの就業機会が減ることになるのかな?」
 彩子の問いを受け、鏡に映った鈴木の眉間に憂いが浮かぶ。
「そこなんだよね。当面は、会場とオンラインの混合状態で進んでいくと思うから、それなりにスタッフが必要。むしろ、今はソーシャルディスタンスを確保した試験運営が求められてるから、会場では以前より試験室数が増えているので、スタッフもたくさん必要なんだよね。今はうちのスタッフだけでは足りなくて、他の派遣会社に協力を依頼してる状態。でも、これから、オンラインに移行するクライアントが増えていくと……」
「オンラインだと、IT技術に抵抗のないスタッフが数名いれば運営できるようになるよね……。社員だけで運営することも可能だし」
 システム内容を良く知る彩子には、そのことが手に取るようにわかった。
「何だか申し訳ない気持ち……。自分が開発に関わったシステムのせいで、お世話になっている登録スタッフさんの仕事を減らすことになると思うと……」
 彩子の脳裏に、てきぱきと献身的に勤務してくれた数多のスタッフの姿が過り、胸が苦しくなった。
「彩子が責任感じることじゃないよ。コロナのせいだよ。抗えない大きな流れだよ。まあ、コロナがなくても、いずれオンライン化は進んだと思うけど、もっとずっとゆっくり……」
「うん。あと、会場試験がなくなると、答案用紙や解答用紙とかの試験資材の会場発送、スタッフへのマニュアル発送を担ってくれる子会社も危なくなるのかな」
 鈴木と彩子は、鏡に映る互いの姿を見つめながら、やり切れない思いを共有した。
「ねえ彩子、私たちの1番の使命は、受験者がベストな状態で受験できる環境を作ることだから、そのことを第1に考えることにしよう。彩子たちの作るシステムがあれば、受験者が感染を恐れながら、遠くから出てくる必要がなくなるし、コロナ感染拡大の防止に貢献できるんだよ」
「そうだね。開発頑張るから、気合い入れて売り込んでね」
「任しといて! そうだ、年末、同期でオンライン忘年会やろうよ」
「いいね、楽しみにしてる!」

 

 彩子は鈴木との会話を思い返しながら、システムを完成させるために、胸に萌した迷いを封印しなくてはと思った。
 新幹線が故郷に近づくに連れ、仕事へのエネルギーを補充するために、透との愛に身を委ねたいという思いが増していった。