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ピアノを拭く人 第1章 (9)

 フェルセンの花壇の端に屹立する銀杏が、色づき始めていた。彩子は、もう少し色づいたら、ペパーミントグリーンの壁と紅葉した葉のコントラストが見られると期待した。日が暮れて、ライトアップされれば、はらはらと舞い落ちる葉が映えるだろう。

 扉を開けると、30代くらいの女性が弾き歌いをしている姿が目に入った。オペラのアリアだと思うが、聴いたことのない曲だった。

 彩子はひどく落胆した。
 胸に巣食う塊を一掃するために、美しいものに身を委ねたかった。だが、自分はトオルの演奏が聴きたかった、その姿を見たかったのだといま気づかされた。

 店内には、文庫本を読んでいる中年男性が1人と、パフェを食べながら談笑している大学生くらいのカップルがいる。
 彼らが歌を聴いているようには見えず、声を張り上げて歌う彼女が少し気の毒になる。トオルの歌には、店の隅々まで彼の色に染め上げる魅力があった。

 彩子はカウンターに座り、羽生にアイスコーヒーを注文した。
「昼間から来るのはめずらしいね」
「ええ、初めてかもしれません」
 アイスコーヒーを運んできた羽生に、さりげなく尋ねてみる。
「今日、トオルさんは?」
 トオルの名を口に出すと、体がほのかに熱を帯びる。
「今日は休み。明日の5時から入るよ」
「そうですか……」
 彩子は落胆を悟られまいと、マスクをかけたまま、いつもは入れないミルクをコーヒーに注ぎ、執拗にかき混ぜる。漆黒の闇に、乳白色が銀河系を描くように広がっていく。
 
 目を閉じて、聴覚に神経を集中させてみる。
 女性は歌っていても聴いてもらえないと思ったのか、ピアノ演奏に切り替えていた。

ショパン ノクターン 第2番
 トオルが弾いていたのを聴いたことがある。
 女性の演奏は、BGMであることを意識して、音量を落としていることを考慮しても、音に透明感もきれもない。トオルの演奏では、1音1音が大切にされ、曲の輪郭がくっきりとしていた。
 目を開けると、ほのかな照明の光がやけに目を刺す。親しんだはずの店内が、よそよそしく映り、ピアノの高音が耳に障る。


「水沢さんのオンマイオウン、良かったよ」
 一息ついた羽生が、カウンターのアクリル板越しに話しかけてきた。
「聴いてたんですか!」彩子はコーヒーを吐き出さないよう、慌てて口元を覆う。
 羽生は好々爺然とした目で肯く。
「裏で片付けをしていたけど、なんだか出ていけない雰囲気になっちゃったからね……」
「ご存じだと思いますが、何もありませんでしたよ」
 力説する彩子に、羽生はわかっていると言わんばかりに2度頷く。
「トオルの伴奏、良かったでしょう?」
「はい」彩子は深く肯いた。
「大学のとき、ミュージカルの練習で、ピアノが弾ける部員に何度も伴奏をしてもらいました。自分が歌いやすいように、細かい要望を出しても、なかなか思い通りにならなくて、苦労した記憶があります。でも、トオルさんは、何も言わなくても、私がどう歌いたいかをセンサーのように察知してくれて……。あんなに気持ちよく歌えた伴奏は初めてでした。歌ったことで、いくらか気持ちに区切りがついた気がします……」
「そう。それはよかった。トオルに言ってやれば、喜ぶと思うよ。彼の伴奏が好きだと言ってくれる人、たくさんいるんだ。このあいだは、うちで歌ってくれる声楽専攻の音大生が、試験の伴奏者として連れていきたいなんて言ってた」
 彩子は、自分だけではないことに少しがっかりしたが、胸にしまった。
「はい。今度、伝えます。あのときのことは、恥ずかしくて話さないままでしたから」
「うん。トオルには、どうにかこのまま弾き続けてほしいから、励みになると思うよ」
 羽生がトオルの精神を案じていることがひしひしと伝わってきた。
「トオルさん、羽生さんには、自然に接していますよね。この前のお話だと、人に失礼なことをするのを気にしているのに、羽生さんとは何時間も問答をしたり、その後でも電話を掛けてきたりするんですよね」
「うん。彼とは家族ぐるみの付き合いだったから、私には遠慮がないんだと思うよ。彼が子供の頃、同じ団地に住んでいたから、その頃から知っているんだ。彼の亡くなったお母さんと私は、同じ高校で教えていたこともあってね。私の妻も彼のお母さんと親しかった。だから、父親代わりみたいなもんだよ」
「そうでしたか……。だから、心を開いているんですね」
「水沢さんも、どんどん話しかけてよ。彼の病気なんか気にせずに、付き合ってくれる存在が必要なんだ。本来はおしゃべりな男だから」
「え?」
 彩子は思いを見透かされたかもしれないことに戸惑った。
 そのとき、バッグの中で、スマホが振動していることに気づいた。
「すみません、失礼します」


 スマホを持って店の外に出て、発信者を確かめる。
「はい、水沢です」本社の番号を見て、自然と背筋が伸びる。
「水沢さん、鈴木です。ご無沙汰しております」
 同期でよく一緒に仕事をした親友だった。周囲に他の社員がいることを意識してか、仕事モードの口調になっている彼女に合わせる。
「お疲れ様です。こちらこそ、ご無沙汰しております」
「せっかくの土曜日にごめんね。実は、お願いしたいことがあるの」
「いえいえ、どうしたの?」
 鈴木の口調がくだけると、よく遊びにいっていたときの空気がすぐによみがえる。
「明日の試験だけど、C大会場のリーダーが熱を出しちゃったの。明日は試験が重なって、近くに住んでるリーダーができる人、みんな配置済みなの。繁忙期で本社からも人を出せないから、行ってもらえないかな? 以前、私たちが担当したあの試験」
 数年前に、鈴木とチームを組んで担当し、クライアントと相談しながら試験官マニュアルを作成した試験だった。
「空いてるから、大丈夫だよ。C大なら何度も行ったことがあるし」
「助かる~。じゃあ、今からメールの添付で、マニュアルと書類送るね。会社のアドレス、見られるよね? プリンターなければ、ファックスするけど」
「添付で問題ないよ」
「ありがとう。今日は遅くまでいるから、わからないことあったら、電話してね。副リーダーはベテランぞろいだから、心配しないで」
「ありがとう。いま、外にいるから、家に帰って、添付ファイル開けたら、確認の返信入れるね」

 電話を切ると、店内に戻り、会計を済ませた。
 秋空の下に飛び出すと、会場リーダーを務めていたころの緊張感がよみがえり、全身の血が騒ぎ出す。