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澪標 9

 あなたの奥様と息子さんが大阪に里帰りする週末、外出しないかと誘われた。奥様には、空き家になっている新潟の祖父母の家のメンテナンスに行くと言っておいたらしい。

 千代田線の根津駅で待ち合わせた。あなたは、黒縁眼鏡、濃紺のパーカーにベージュのチノパン、黒いスニーカーというカジュアルないでたちで現れた。どれもあなたの身体に気持ちよく馴染んでいて、普段着さえも、納得したもの以外は身に付けないこだわりを感じた。

 案内されたのは、駅から数分のうどん屋だった。開店前なのに、既に行列ができていて、人気店であることが伺えた。明治期に建てられた煉瓦造りの石倉を改装した建物で、隈健吾氏の設計でいまの姿になったという。下町の景観に違和感なく溶け込む姿に魅かれ、思わずスマホカメラで撮影してしまった。あなたは、そんな私を眉尻を下げて見ていた。

 通された席から、立派な日本庭園が眺められた。隣に見える老人ホームも隈氏の設計だとあなたから教えられた。

 あなたの勧めで、釜揚げうどんを注文した。うどんは注文を受けてから切るようで、厨房から豪快な包丁の音が聞こえてきた。

「これをあなたにと思って……」

 包装紙を開けると、サムライ アクアクルーズのオードトワレだった。海を思わせるターコイズブルーが底部から上に向かってグラデーションのように薄くなっていく瓶に、窓から注ぐ光が反射した。

「あなたに香りを楽しむのを止めさせてしまったことが、気になっていたんです……。僕と同じ香りなら、問題ないでしょう。女性がつけてもいい香りだと聞きました」

 こみ上げてきた笑いを抑えられなかった。「実は私、同じものを買ってしまったんです。毎晩、枕にほんの少し垂らして眠っています」

「なんだ、そうだったの。ここまで気が合うと何だか窮屈だね」そうぼやきながらも、あなたは嬉しそうだった。

「それなら、あなたの買ったものを僕にくれませんか。そうすれば、無駄にならないでしょう」

「わかりました、そうします」テーブルに差す初夏の日が、ダンスをしているように揺らめいていた。

 うどんが出てくる前に、店員が徳利からつゆを注いでくれて、鰹だしの優しい香りが鼻をくすぐった。こしのしっかりした釜揚げうどんは、絶妙な温かさのつゆによくなじんだ。つゆが減ると店員が絶妙のタイミングで注ぎ足してくれた。用意されたねぎ、揚げ玉、七味などの薬味を自分の好みに合わせて入れられるのが嬉しかった。

 うどんがお腹に収まった頃、私の全身は幸福感で満たされていた。あなたは、「きっと気に入ってくれると思いました」と相好をくずした。


 気になった店をのぞきながら、賑わう谷中銀座をぶらぶら歩き、谷中霊園に足を向けた。

 何度も来たというあなたについて、ゆっくり時間をかけて霊園を散策した。他愛のない話をしながら、墓地のなかを歩き、著名人の墓を探すのは楽しかった。時折訪れる会話の途切れは気にならず、その間さえも心地よく感じた。墓石の上や周囲に、愛らしい野良猫が見え隠れし、猫好きの2人を和ませた。木々に青々と茂る若葉の匂いに、あなたと一緒に仕事をして、1年以上経ったことを実感した。

「余裕をなくしていたとき、よく1人で墓地を歩きました」あなたは、それがいつのことだったのか明言せずに話し出した。

「義務に追われて、ぼろぼろで、いつまでこれが続くのか先が見えない。そんなとき、あの世とこの世にいる者が一番近づく場所に魅かれたんです。死が自分を解放してくれるのかわからない、それでもすべてを投げ出したくなることもあったんです」

「あなたは、決してそれを許さない人だから……。きっと、死んでも苦しみから解放されないでしょう」

 あなたは私を振り返り、自嘲気味に笑った。

 痩せた茶トラ猫が、あなたの足元にまとわりついてきた。あなたは、「ごめんな、何も持っていないんだ」と、しゃがみこんで猫の喉を撫でた。猫はあなたが手を止めると、近くの水たまりの水をぺちゃぺちゃ飲んで去っていった。あなたは、しばらく猫を目で追ってから立ち上がった。

 墓地を抜けた頃、「夕食をどうしますか」と尋ねられた。

「よかったら、うちで食べませんか? うちは綾瀬だし、ここから近いでしょう。昨日、かれいを買ったんです。煮魚にしようと思っていました」

「いいんですか?」

「もちろんです。買い物をしてから帰りましょう」私はあなたの背中を押し、朗らかな足取りで歩いた。


 駅前のイトーヨーカドーで、食材、あなたの部屋着と日用品を買い、アパートに帰った。あなたが部屋に来るのは、あの送別会の夜以来だった。

 あれから、いつあなたを迎えてもいいように精油をたかず、家でもあなたと同じ香り以外はまとわなかった。いつ連絡が来てもいいように、アフターファイブの予定は、できるだけ入れなかった。そんな日々が窮屈でないと言えば嘘になるが、自分で選んだのだからと納得させていた。

 煮魚の味付けをする私の横で、あなたは私の緑色のエプロンをかけ、味噌汁の具にする玉葱とじゃがいもを刻んでくれた。

「包丁使い、上手ですね」

「よくやるからね」

 その一言の裏に、奥様を支えて家事を担ってきた年月が垣間見え、心がささくれ立った。こんな感情を飼いならし、表に出さないようにしなくてはと思った。私たちは、互いの考えていることを敏感に感じとってしまう。それが、互いを段々息詰まらせ、身動きがとれないところに追い込んでしまう。いつか、竹内くんが言っていたことの意味が、重く迫ってきた。

 煮魚に落とし蓋をしたころ、昆布を入れて加熱していた鍋が沸騰したので、鰹節をたっぷりと入れた。

「味噌汁の出汁、ちゃんと取るんですね」背後からのぞきこんだあなたは、立ち昇る香りに眼鏡の奥の目を細めた。

「出汁がよく出ていると、味噌が少なくても味がしっかりするんです。もう少しでできるので、ソファで休んでいてください」

「何か手伝えることはないですか?」

「大丈夫です。今日くらい、私に任せて、ゆっくりしてください!」

 あなたは叱られた子供のようにソファに退散した。


 テーブルに、鰈の煮付けに炒めた茄子、雑穀ご飯、玉葱、じゃがいも、豆腐とわかめを入れた味噌汁、鰹節と和風ドレッシングをかけた大根サラダを並べ、2人で食べた。

「いつも自炊をしているんですか?」あなたは、鰈の骨をきれいにはがしながら尋ねた。

「週末はだいたいしています。平日の夕食は、疲れていてお惣菜を買ってきてしまうことがありますが、ご飯は炊きます」

 たまには寄ってくださいと言い添えたかったが、あなたを追い詰めることがわかっていたので心に収めた。

「だから、味付けが上手なんですね。どれも、僕の好みの味です。素朴さを感じますが、決して手抜きではなく、この味に落ち着くために研究したのがわかります」

 確かに私の味付けには、試行錯誤の末にたどり着いた分量と方法があり、それに気づいてもらえたことが嬉しかった。得意になる一方で、奥様の味があなたの舌に記憶されているのだろうと思った。


 食後に、私がいつも飲んでいる黒豆茶を淹れ、一緒に買ってきた草餅を食べた。

「このお茶、香ばしい香りですね」あなたが湯気で曇った眼鏡を拭きながら言った。

「黒豆茶です。緑茶のほうがいいですか?」

「いや、気に入りました。ほっこりします」

「よかった。私、黒豆茶、麦茶、ハーブティーとか、ノンカフェインが好きなんです」

「そういえば、あなたは外でもあまりコーヒーや緑茶を飲みませんね。爽健美茶や十六茶、ミネラルウォーターをよく飲んでいる。僕もここに来たときは、あなたとノンカフェインを飲むことにします。凝り固まっているものがほどけそうです」

 あなたは後片付けは自分がと言い張ったが、私はソファで休んでいてほしいと譲らなかった。

 ソファに背筋を伸ばして座り、新聞を読むあなたをちらちら観察しながら、あなたもまだ気を張っているとわかった。そんなあなたが、徐々に姿勢を崩し、ごろりと寝ころんだのが堪らなく嬉しかった。軽い肌掛けを持ってきて、そっとかけた。あなたは、ありがとうと私を抱き寄せて口づけてくれた。しばらくして、あなたは平和な寝息をたて始めた。よほど疲れていたのだろう。


 明日の朝食の下ごしらえをしながら、この関係の行きつく先に思いを馳せた。不倫に関連する小説、漫画、専門書をKindleで片っ端からダウンロードして読み、Netflixで不倫が出てくる映画やドラマをたくさん見ているが、納得できる答えはどこにもなかった。

 あなたは絶対に奥様と息子さんを捨てない。もしも、そうしたら、あなたは罪悪感の塊になり、残りの人生を屍のように生きるだろう。私は、あなたが誇り高く生きられるように、居心地のよい場所を作り、奥様のもとに帰るエネルギーを充電するしかない。

 私は、若くて義務感の強いあなたに守られた、病気で働けない奥様に、気が狂いそうになるほど嫉妬していた。それなのに、なぜ敵に塩を送るようなことをしているのか。矛盾していることは、誰よりも自分がわかっていた……。

 結局、私はあなたの傍にいたいのだ。家庭からは得られない非日常的な刺激を与え続け、あなたをつなぎとめたいのだ。そのためには、絶対に奥様に知られてはならなかった。

                ★

 あなたを起こさないようにシャワーを浴び、部屋着にしているジャージに着替えた。ベッドに横たわり、昨夜から読みかけの本を開いた。

 寝落ちしそうになった頃、あなたがむくりと起き上がった。目をこすって眼鏡をかけ直すと、私の寝ているベッドに腰かけた。

「ごめん。ようやく、ゆっくり会えたのに、だいぶ疲れが溜まっていたみたいで……」

「いいんです。自分の家のように寛いでくれて嬉しいです。いつでも、寄ってくださいね」

「家より安らぐよ……」

 あなたは、買ってきた部屋着に着替えると、私の隣に横になった。

「何を読んでいたんですか?」あなたは、私が枕元の棚に戻したブックカバーに覆われた本を指した。

「井上靖の『猟銃』です」

「どんな話?」

「ある不倫をしていた男性(彼)に宛てた3通の手紙で構成される小説です。最初に、亡くなった母と叔父(彼)の不倫を知った娘の手紙、次に不倫された叔母から夫(彼)への手紙、最後に彼と不倫していた母の遺書。小学生の頃、父の本棚にあるのを拝借して読んで、とても怖かったんです。不倫の怖さが凝縮されているようで……」

 あなたは、何も言わず、あおむけに横たわったままくうを見据えていた。

「絶対に、奥様と息子さんにばれて、傷つけることにならないように気を付けましょうね。私はあなたを元気にして、選んだ航路を進む助けになれれば、それだけで……」

 言い終える前に、あおむけにされ、一切の思考を奪うキスの豪雨を浴びせられた。

 起き上がった私は、あなたをあおむけにしたり、うつ伏せにしたりしながら、爪先から髪の毛まで、あなたの反応を確かめながらキスと愛撫の雨を降らせた。私の知らないあなたを発見するたびに、全身に鳥肌がたち、足のあいだの洞窟が潤っていった。

「自分の身体なのに、知らないことだらけだ……!」あなたは身をよじり、何度も呻いた。

 身を起こしたあなたにあおむけにされた。あなたの右手が2つの小山を愛撫し、左手の指が洞窟のなかで宝物を探すように優しく動き、私の身体を何度も激しくしならせた。

「早く来て!」

 あなたは洞窟に分け入り、探し当てた場所を何度も刺激した。脳の奥まで攪拌されるような快感に、洞窟の襞が激しく収縮し、あなたを野生を取り戻したように咆哮させた。

「前より、ずっと深かった……」

「僕もだ。初めて知ることばかりだった。あなたとなら、果てしない航海に乗り出せる気がする……」

 あなたの香りがほのかに揺らめくなか、私たちは進んでいく時間を捕まえる勢いで抱きしめ合った。