連載小説「出涸らしのティーバッグ」第4話
4-1
3月末に彩子が退職してから、彼女の仕事を引き継いだ。それに加え、ソーシャルディスタンスを確保して試験を実施するため、広い会議室のあるホテルやコンベンションセンターを新たに借りることになり、その手配と下見に追われる日々だ。
管轄地域で試験会場のリーダーや副リーダーが体調不良などで勤務できない際は、代わりに事業所スタッフが入る。持病のある黒沢さんや矢島さんは現場に出るのを怖がるので、必然的に私の役目になる。いつ連絡が入るかわからないので、今まで以上に体調に気をつけなければならない。
夕食を食べ終わり、アロマディフューザーにサンダルウッド(白檀)の精油を垂らす。電車で移動していた本社勤務から、車の運転が必須の北関東に移ってから、運転に伴う全身の緊張が大きい。馴染み深い気品のある香りは、緊張を解きほぐし、心を落ち着けてくれる。黒豆茶を淹れようと思ったとき、竹内くんから3人でZOOMで話したいとLINEが入る。
竹内翔真:
忙しいのにごめんな。ちょっと、話を聞いてほしいんだ。
クリーム色の壁を背景にした竹内くんは、画面越しにもわかるほど切羽詰まった表情をしている。仕事でトラブルになっても朗らかさを忘れなかった彼の険しい表情を前に、余程の事態なのかと私も身構える。
鈴木澪:
大丈夫? ずいぶん深刻そうに見えるけど。
水沢彩子:
遅れてごめんね。竹内くん、今どこにいるの?
退職して以来の彩子は、めずらしくメガネを掛けたスーツ姿で画面に現れた。心なしか引きしまった表情は、新たな会社で働く緊張感を窺わせる。
竹内翔真:
テレワークブース借りた。ちょっと、家では話しにくくて……。
水沢彩子:
どした? とりあえず、話してくれる?
竹内翔真:
先週、すずの妊娠がわかったんだ。三ヶ月だって。
鈴木澪:
え、おめでとう! よかったね。
水沢彩子:
おめでとう!! 竹内くん、お父さんになるんだね。
おめでたい話なのに、彼が浮かない顔なのは、そこに問題を孕んでいることを濃厚に匂わせている。
竹内翔真:
ありがとう。でも、ちょっと面倒なことが出てきた……。
おととい、妊娠がわかった時点で、俺とすず、福岡のすずの両親、俺の両親の6人でZOOM会議開いたんだ。初めての顔合わせで、大切な報告がZOOMなのは失礼かもしれないけど、この時期と状況では致し方ない。
水沢彩子:
で、どうなったの? 入籍することになったんでしょ?
竹内翔真:
うん。この状況だから早急にということで。
問題は、その後、両家の父親が家族を紹介したときなんだ……。
彩子も息を詰めて続きを待っているのが表情で伝わってくる。
竹内翔真:
俺の父が偶然実家にいた妹を紹介して、4歳の甥っ子を抱いた彼女が画面に出て挨拶した。
その後、すずのお父さんが祖父母を紹介してくれた。それから、すずには弟がいるけど、心の病気なので、挨拶は遠慮させてほしいと歯切れの悪い口調で言ったんだ。
そのとき、うちの両親が怪訝そうに顔を見合わせた。その場では、宜しくお願いしますっていうことで終わったけど……。
竹内くんは細い目を伏せ、声を落として話し出す。
竹内翔真:
ZOOM切った後、うちの母がすぐに俺のスマホに掛けてきて、すずの弟の心の病気について、詳しく教えてほしいと言ったんだ。場合によっては、結婚を考え直したほうがいいんじゃないかと……。
あまりにも身勝手な竹内くんのお母さんの発言を聞き、話に割り込んでしまう。
鈴木澪:
心の病気の弟さんがいるから、結婚を許さないってこと? もう、すずちゃんのお腹で新しい命が育ってるのに。
竹内くんは私に鋭い視線を向ける。
竹内翔真:
最後まで聞けよ。
親に聞かれたとは言わずに、すずに聞いたんだ。すずの弟は、中学のときに不登校になったけど、通信制で高校と大学はどうにか卒業した。でも、就職した会社でうまくいかなくて引きこもってる。
今までに、近所の人に妨害電波を送るなと暴言を吐いたり、店で支離滅裂なことを叫んでトラブルになって、何度か強制入院させられたそうだ。彼は統合失調症と診断された。数か月前に、前は発達障害って言われてた神経発達症とも診断された……。
俺は、すずと付き合い始めの頃、精神を病んで引きこもってる弟がいると聞いていたけど、詳しいことは知らなかった……。すずも、弟が神経発達症と診断されたのは最近知ったそうだ。もともと、仲の良い姉弟ではなかったから、ほとんど連絡取ってなかったみたいで。
水沢彩子:
それを竹内くんのご両親に伝えたの?
竹内翔真:
俺はうつ病だと言っておこうと思った。うちの両親が反対するのは火を見るより明らかだから。
だけど、すずが最初に伝えたほうがいいって言い張るから、2人でうちの両親にZOOMで話した。両親は驚いて、なぜ今まで言わなかったのかと不満を漏らした……。さすがに、お腹に子供のいるすずに強く言えないから、すぐ俺に電話してきた。
竹内くんは眉根を寄せ、手元のスターバックスの紙カップを手に取る。
竹内翔真:
実はうちの両親が反対するのは訳があるんだ。
俺の妹の4歳の息子が神経発達症と診断されてる。落ち着きがない上に、すぐ癇癪を起こす気難しい子で、妹も本当に苦労している。妹の旦那は、息子を診てくれた医師に受診を勧められて、自閉スペクトラム症(ASD)と診断された。
妹は旦那に息子のことを相談しても、宇宙人と話してるみたいに話が通じないと言ってる。それが続いた妹はストレスで精神科の薬を飲むようになってしまった。ASDの家族とコミュニケーションや関係構築が上手くいかなくて心身に不調が出るカサンドラ症候群だ。
鈴木澪:
子供の診断のときに、親もそうだとわかることがあるんだ。
竹内翔真:
そうなんだよ。うちの妹は知らないまま結婚して、出産した後に判明したから、旦那さんを責めることができない。
妹の旦那さんは仕事で神経を使い果たしてしまい、家では育児を手伝う余力がない。息子を静かにさせろと妻に怒鳴ったり、ストレスで壁や家具を蹴ったりする。だから、うちの両親は娘を休ませるためによく孫を預かるんだ。けど、高齢だからくたくたになってしまう。30代の妹が大変なんだから、60代の両親の苦労は想像できるだろ?
それがあるから、うちの両親は神経発達症の可能性のあるすずとの結婚にいい顔をしない。もし、妹の息子みたいな子ができても、自分たちは体力的に手助けは無理。すずと結婚して子供を育てるなら、自分たちの援助はあてにしないでほしいと宣言された。
鈴木澪:
でも、すずちゃんは神経発達症だと診断されたわけじゃないでしょう?仮に彼女がそうだとしても、100%遺伝するわけじゃないし。
竹内翔真:
すずも、弟さんが神経発達症だと知ったのは最近だから、診断を受けていない。でも……。
竹内くんはしばし言い淀んでから、ぼそぼそと続ける。
竹内翔真:
俺、今まで神経発達症のことをほとんど知らなかったから、ネットで調べまくった。言われてみれば、すずの空気が読めないところ、掃除や整理整頓の徹底ぶり、皮膚が敏感で着られる服や使える化粧品が限られてること、イヤホンをしないと繁華街を歩けないくらい聴覚が過敏なところはASDの症状に当てはまる……。あと、記念日デートとか旅行とか計画を立てるのが好きで、その通りに進まないと不安定になるんだよ。
神経質で完璧主義なのは信金の仕事にプラスになってるから、仕事に大きな問題はないようだけど。
すずの弟が統合失調症なら、彼女がなる可能性とか、子供に遺伝する確率もゼロではないだろう……。
水沢彩子:
要するに、すずちゃんと結婚して子供を育てるのが不安?
私はすずちゃんに同情してしまい、怖気づいている暇があるなら、子供に適切な環境を整えてやる方法を考えろと言ってやりたかったが、心に収めた。
竹内翔真:
誤解しないでほしいけど、俺はすずと趣味が合うこととか、几帳面で家事が得意なところに惚れてプロポーズした。彼女と赤ちゃんを守る義務があるとわかってる。父親として、夫として、そうしたいと思ってる。
竹内くんは自分に言い聞かせるように言った後、力なく話し出す。
竹内翔真:
けど……、2人だから話すけど、産まれてくる子が神経発達症だったらと思うと、ものすごく不安。実家で甥の世話を手伝ったことが何度かあるけど、とにかく大変でクタクタになった。妹から、検診で他の子と違うことを痛感させられて心が折れたり、手に負えないと保育園を追い出されたりした話を散々聞かされているから……。ネットで、神経発達症の子供を育てるのに苦労してる方のブログ見ると、ますます自信なくなる。
すずの実家は九州で、弟さんのことで大変だから、助けは期待できない。俺の両親にも助けてもらえない……。
鈴木澪:
竹内くんが不安なのは当然だよ。不安にならないほうがおかしいと思う。最初から良い父親になろうと意気込まないで、すずちゃんと一緒にいろいろ乗り越えて成長することを考えればいいんじゃない? 実家や義実家の助けが得られなくても、行政や民間の支援を活用することもできるし。
いまは、すずちゃんの心と体を一番に考えてあげないと。一番不安なのは彼女なんだから。
竹内翔真:
そうだよな……。二人ともサンキュー。聞いてもらって、少しすっきりしたよ。
竹内くんは、小さく口角を上げて笑みを作ろうと試み、かきむしって乱れた髪をなでつける。
水沢彩子:
聞くだけならいつでもできるから、遠慮しないで相談してね。
竹内翔真:
ありがとう、これからも頼むよ。
そういえば、水沢さんの婚約者も、神経発達症だって言ってたよね?
水沢彩子:
まあね。いま二次障害の強迫症を治療中。ほぼ寛解してるけど。
竹内翔真:
子供つくるとか考えてる?
彩子は少し沈黙した後、いつものさばさばした口調で答える。
水沢彩子:
うちはつくらない。透は自分が言葉にできないほど苦労したから、絶対に自分の血を引く子供は作らないと決めてる。私はその意志を尊重したい。
竹内翔真:
水沢さん、婚約する前に、透さんからそのこと聞いていた?
水沢彩子:
うん。深い関係になる前に、透が話してくれた。
竹内翔真:
マジで? あのさ、透さんに相談できないかな? 話聞いてほしいんだ。
水沢彩子:
えっ!? 全然参考にならないよ。竹内くんは、子供を育てると決めているんでしょう。まったく正反対の意見を聞かされるから、絶対やめた方がいいよ。
竹内翔真:
頼むよ。とにかく、いろいろな立場の意見を聞いておきたいんだ。
水沢彩子:
透の意見聞いたら、ぎょっとすると思うけどいいの……?
竹内翔真:
構わないよ。透さんの都合のいいときに、ZOOM繋いでよ。
ZOOMを切断すると様々な思いが疾風のように胸を駆け抜ける。いつもは心穏やかにしてくれるサンダルウッドの香りも効果を発揮しない。カーテンを勢いよく開け、どこまでも続く葡萄色の空に、ざわめく心を解き放つ。
トーニオさんこと葉山さんも神経発達症だ。神経発達症の子供向けのアプリを開発し、少年院を訪問している彼は、子供嫌いではないだろう。もしも、彼と人生を共にすることになったら、私も竹内くんと同じ問題に直面するだろう。
私は、障がいを持つ人と一緒に人生を歩む覚悟を決めたら、障がいが遺伝する可能性があっても子供を産んで育てたいと思う。竹内くんの話を聞いていて、妊娠しているすずちゃんとの結婚を考え直したほうがいいと言った彼の親に対する怒りが突き上げてきた。女として生まれたからには産みたいと漠然と思っていたが、湧き上がった思いは、自分でも驚くほど激しかった。
4-2
気持ちを波立たせたまま、ベッドの上でアプリを開くと、ちょうど理央さんのメッセージが飛び込んできた。
理央さんの明るさは、もやもやしたものを一時忘れさせてくれる。家族との仲が良すぎるのが気になるが、育ちの良さが自己肯定感のルーツになっているようで好感が持てる。流れに乗りたい衝動に任せて返信する。
理央さんとのLINE連携が済むと、キャッチボールのようにメッセージが続き、より彼を身近に感じられるようになった。
醍醐理央:
初LINEドキドキします(^^;)。澪さんとお呼びして宜しいでしょうか?僕のことは理央と呼んでください。これから宜しくお願いします。
鈴木澪:
こちらこそ、宜しくお願いします。どうぞ、澪とお呼びください。
醍醐理央:
雅なお名前ですね。国語教師のお父さんがつけたのでしょうか?
鈴木澪:
正解です!『源氏物語』の「澪標」からとったそうです。理央さんも素敵なお名前ですね。どなたがつけたのですか?
醍醐理央:
父と母が相談したと聞いています。性別がわかる前に、男女どちらにもつけられる名前を考えたとのことです(^^;)。
鈴木澪:
素敵ですね。とても愛されているのが伝わってきます。
ところで、理央さんのお友達はどんな方が多いですか? 私は地元を離れて久しいので、親しく付き合っているのは会社の同期です。
醍醐理央:
僕は幼稚舎から慶應なので、一番親しく付き合っているのはそのときからの友人です。家族ぐるみの付き合いの仲間もいて、ハワイの別荘も近いので、学生の頃から休み中もよく遊んでいました。
幼稚舎から慶應と知り、「うわっ!」と叫んでしまった。幼稚舎は6年間クラス替えがなく、担任も同じで、出身者は強い絆で結ばれていると何かで読んだので納得できた。「東京育ちですよね」などと無邪気に書いたメッセージが恥ずかしく穴があったら入りたくなる。
慶應エスカレーター組は、結婚相手も同じエスカレーター組から選ぶか、しかるべき家柄の相手を選ぶ傾向があると小耳にはさんだ。彼が、家庭環境が異なり、特に秀でたところのない私を結婚相手として本気で考えているとは思えない。
鈴木澪:
私とは世界が違うので気後れしてしまいます(^^;)。でも、知らない世界のお話を聞くのは楽しいです。
醍醐理央:
澪さんはしっかりした教員の家系で、伝統あるお嬢様女子大の出身じゃないですか。S女子大は祖父母や親世代に評判良くて、お見合い相手にあがりますよ。仕事もしっかりしているし、家族や友人に自信を持って紹介できます。
鈴木澪:
ありがとうございます……。そんなふうに言っていただけると安心しますが……。
醍醐理央:
これから、たくさんLINE送りますね!
コロナ禍でなければ、お食事会で出会って、ちょっといいなと思ったらLINE交換して、よく知らないうちにスタートというパターンが多いですが、こうしてたくさんお話しして、関係を深めるのもいいですね。
高収入の商社マンは、キャビンアテンダントやモデルなど華やかな職業の美しい女性とお食事会をしているイメージがある。そんな世界にいる男性だと思うとますます気後れしてしまう。
だが、理央さんが私と向き合ってくれているのだから、先入観にとらわれるよりも、真摯に向き合うべきだろう。
思いのほか筆まめな理央さんは、朝晩LINEを送ってくれて、生活に刺激とハリを与えてくれるようになった。
4-3
トーニオさんからメッセージが届くと、竹内くんの話に思考を戻される。トーニオさんに子供が欲しいかを尋ねようかとメッセージを書いたが、この段階でその話題を出すのも早すぎる気がして削除した。
ASDの特性を隠さずに書いてくれることに彼の誠実さが垣間見える。感覚過敏は私が想像できないほど辛いのだろう。彼がようやく見つけた自分の居場所を守るために、それに耐えて広告塔の役割を果たしていると思うと、ねぎらいたい思いが炭酸飲料の泡が弾けるように湧いてくる。
本音を言えば、理央さんよりトーニオさんとメッセージを交わしているときのほうが素の自分でいられる……。けれど、竹内くんの話を思い出すと、彼との連絡をこれからも続けるべきか考えさせられる。
答えの出ないまま、心が赴くままにメッセージを打つ。