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連鎖 2-(3)


 翌週、香川に説得されたのか、練習に出てこなかった2年の大半が戻ってきたが、桐原と東の姿はなかった。

 第1トランペットの2人が欠けると、凪のリップスラーがきいた旋律が際立った。それに気づいたのか、香川が凪に尋ねた。


「橘、第1を吹いてみないか?」
 凪は言葉を失った。とても現実とは思えず、そのとき目に入った香川の白いワイシャツが妙に鮮やかに映った。だが、自分に集まる部員の視線に気づくと、途端に現実に引き戻された。嬉々として飛びつけば、桐原や東に告げ口されるのはわかっていた。
 

 戸惑う凪の気持ちを察したのか、香川が穏やかな声で尋ねた。
「橘、練習のときだけでも吹いてくれないか? 第1がいないと困るんだ」
「練習のときだけ吹いてみます……」凪は俯いて答えた。
 第1の楽譜を受け取ると、凪は責任の重みに全身が戦慄した。2年が欠けていくなか、1年も既に戦力で、香川の指示で重要なパートを担っている仲間もいる。引き受けた以上、初心者だという甘えは許されない。凪は香川に頼んで、部活終了後の練習を許可してもらった。周囲の視線を気にしている余裕などなかった。

 第1の楽譜には、凪がやっと出せるようになった高音が出てくる。今の技術では、この高音は唇の状態が良いときしか出せない。凪は桐原と東がいとも簡単に高音を鳴らしていたのを思うと、追いつけない自分が悔しく、何かにとり憑かれたように練習した。

 吹きすぎると唇が疲れるが、できたという手応えがないままでは止められず、がむしゃらに吹き続けた。だが、そのうち、唇が痛くてどうにもならなくなる。こうなると、流石に唇を休ませなくてはならない。

 凪はマウスピースを洗い、水で腫れた唇を冷やした。音楽室に戻り、誘われるようにベランダに出ると、夕闇に包まれた山の稜線がくっきりと見えた。人間の営みを超越してどっしりと聳えている山を眺めると、不思議と心が凪いでいく。幾重にも重なった山影は、その濃淡でここからの距離がわかる。遠くに薄墨のように霞む山影が、存在感の薄い自分に重なり、無性に愛おしくなった。

「橘、今日はもう終わりにしろ。唇が限界だろ?」
 凪はいつの間にか傍らに立っていた香川にびくっとした。30センチ以上の身長差と彼が放つオーラに圧迫感を覚え、逃げ出したくなった。

「いえ、まだ納得できないところがあるので、もう少し」

 凪は上ずった声で答え、室内に戻ろうとした。

「もう、やめておけ。そんなに唇を酷使すると、痛めて本番で力が出せなくなる。唇をケアするのも演奏者の責任だ。第1を吹く奏者なら、そのことも自覚しろ」

 何も言えなかった。できない自分に苛立ち、腫れ上がった唇を休ませなければと思いながらも、狂ったように練習してしまった。この悪循環では出るはずの音も出ず、ますます苛立ってしまう。

 香川はさらに畳み掛けた。

「今は焦らずに唇を休ませて、明日の合奏のときに良い状態にしておくことを考えろ。無駄に体に負担をかけるよりも、短時間で質の良い練習をするほうがいい。焦らなくても大丈夫だ」

 香川が大丈夫だと言い切ってくれたことで、焦燥を抱えた凪の心は少しだけ解き放たれた。

「橘、高音は息を速く出すことが大切だ。腹式呼吸でしっかり支えないと、速い息は出せないぞ。長期的には、腹筋をして鍛えること、ロングトーンで口角の筋肉を鍛えることも必要だ」

 凪は焦るあまり、腹式呼吸が崩れていたことを見抜かれていたのに気づいた……。この人の耳はごまかせないと思い、明日は基本に戻ってみようと素直に思えた。

 他方で香川は、合奏では容赦なく凪を注意し、今できる最高のものを引き出そうとした。

「橘、今の音、もう少し自然に伸ばせないか? もう1度」再び香川のタクトが動き出したが同じ箇所で止まった。

「音は出ているのだから、高音だと身構えずに力を抜いて。もう1度吹いてみて」

 部員の視線が自分に集まる中、力を入れずに吹いたが、やっと出している高音を保つには力が必要だった。何度か繰り返したが、途中で唇がうまく振動しなくなり、音が不安定になってしまう。彼はこれ以上やると唇を痛めると配慮したのか、別の箇所に移った。部員の前で晒し者にされて悔しさが募った。今なら飛び出していった先輩の気持ちがわかる気がした……。