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連鎖 2-(2)

 T中を金賞に導いた香川の顧問就任も、10年以上コンクールに出ていないA中では迷惑以外の何物でもなかった。部員の大半は部活に情熱を注ぐ気などなく、放課後は塾や習い事を優先してきた。それを当然としてきた部では、いきなり長時間の練習を始めても反発しか起こらず、朝練に出てくる部員はたちまち一桁に減った。噂を聞いて部を覗きにきた3年は、想像を超える光景を目の当たりにし、全員が吹奏楽祭や文化祭を待たずに引退を決めた。


 香川は部長の熊倉の説得で、部活を16時半に終わらせる伝統を受け入れ、短時間集中型の練習をすることに同意した。だが、彼が演奏時の姿勢を執拗に注意すること、2年に対しても、音が安定しない、こもっている、叩く速さが変わってしまうなど、基礎的な注意をすることが不評を買った。元々士気が高くない2年は、1年の前で基礎的な注意をされたことにプライドを傷つけられ、練習に来なくなる者が増えた。彼女たちにとって、部活は強いストレスを感じてまで続けるものではなかった。

 彼が代々受け継がれてきた練習曲を廃止してしまったことも、2年の反発を強めた。A中で練習曲として伝わってきたのが「鉄腕アトム」だった。松山が赴任する前から伝わっていたらしいが、なぜこれが練習曲として適切なのかを説明できる者はいなかった。だが、2年は1年のときに先輩から教わり、後輩に教えるのを楽しみにしていただけに、彼が簡単にそれを廃したことが許せなかった。


 他方で1年は、おかしな伝統を変えてくれる香川を密かに歓迎していた。1年が先輩とすれ違う度にお辞儀をする光景を見た彼は、ここは応援団でも軍隊でもないとすぐにやめるよう指示した。2年が自分の楽器の出し入れを1年にさせるのも許さなかった。1年は心の中で拍手喝采したが、先輩がこれは伝統だと香川と激しく言い争う光景を見ると、これまで通りやるのが無難だと諦めた。案の定、先輩の楽器の出し入れをやめた1年は、部室に呼び出されて散々締め上げられた。


 香川は部員1人1人と向き合って指導することで地歩を固めていった。彼の助言を受けた2年は、半信半疑で言う通りにやってみると、以前は出なかった音が出たり、リップスラーが滑らかにできるようになった。木管から金管、打楽器に及ぶ広い知識を見せつけられ、反抗的だった2年も、彼の実力を認めざるをえなかった。


 香川は楽器を持ちたての1年に変な癖がついていないかを入念にチェックした。凪もそれに引っかかった。凪が唇にマウスピースをべったりつけて吹いているのを見た香川は、すぐにそれを変えさせた。

「唇を閉じてにっこり笑うように横に引いて。そうすると、唇が軽く内側に巻き込まれるだろう? そう、その形だ」

 香川はマウスピースを持ってきて、自らやってみせてくれた。凪は口の形アンブシュアを変えて今までのように吹けなくなるのが不安だった。彼はそんな凪に、今の吹き方では、いずれ上達に限界が来ると警告した。焦らずに新しい口の形に慣れることを考え、腹式呼吸やロングトーン、リップスラーに集中しろと説いた。だが、彼の言う口の形では思うように音が出ない……。

 腑に落ちない凪が、テレビでプロのトランペット奏者の口元を観察すると、みな彼が言った形で吹いている。小学校から吹いている桐原もその形で吹いていた……。今までこんな基本さえも教わらなかったことが空恐ろしくなった。凪は早く新しい口の形に慣れようと、狂ったようにロングトーンやリップスラーを続けた。


 部員の中には、容姿端麗で紳士的な香川に指導され、彼に恋愛感情を抱いてしまう者もいた。だが、容姿にも中身にも自信のない凪は、いわゆる「格好いい男」が苦手だった。香川のような非の打ち所がない男を前にすると、ときめくよりも気後れが先に来る。それに、そもそも、16歳も年上の香川を恋愛対象として見られなかった。凪の好みは、クラスに1人はいる物静かな優等生タイプで、そんな男子を密かに見ているほうが心ときめいた。



 香川の長い腕がしなやかに動き、部員は導かれるように音を紡ぎ出す。凪は曲の冒頭のメロディーを高らかに奏でた。新しい口の形に慣れてから以前より音が安定してきた。最初は音さえも出せずに苛立ったことを思うと、我ながら良くここまでもってきたと思う。

 堅物の凪も、音楽に入り込むに連れて体が揺れてくる。だが、香川はそれに水を差すように指揮を止めた。

「今のところ、第一ファーストトランペットの2人は抑えて。第二セカンドの音が聞こえなくなる」

 香川の指示に、桐原と東は不満げに顔を見合わせた。

「同じところから、もう一度」

 再び香川の指揮棒タクトが動き出したが、また同じところで止まった。「桐原と東、楽譜をしっかり読め。ここはフォルテだ。2人の音はフォルテシモの音量だ。全部その音量で吹いたら、めりはりがなくなる。もう一度」

 指揮棒が上がったが、桐原は楽器を膝に置いたまま、憮然としていた。彼女が欠けると、第2の凪の音は明瞭になったが、重奏感に欠けることは否めない。

「桐原、誰のために練習をしていると思っている」

 香川が感情の起伏を排した声で言うと、桐原は弾かれたように立ち上がって訴えた。

「ここは、このくらいの音で吹かないと! 橘さんが私たちに負けない音で吹けばいいんです。松山先生は小さくしろと言いませんでした!」

 桐原が松山の名を出したことで、ぴりっとした空気が室内を支配した。香川は表情を変えず、いつものように低い声で言った。

「他人の音が消されてしまったら、合奏にならないだろう。桐原と東に限らず、このバンドは自分が目立つことばかり考えて、他人の音を大切にしない人が多すぎる。それが格好悪いことだと自覚してほしい」

 桐原は華奢な肩を怒らせ、声を荒らげた。

「先生は、合奏を楽しめって言いましたよね? そんなふうに重箱の隅をつつくように注意されたら、楽しむどころじゃなくなります!」

 多くの部員が頻りに頷いた。香川は諭すように語りかけた。

「合奏を楽しむことと、好き勝手に吹くことは違う。作曲者は命を削る思いで一音一音を書いている。まずは楽譜に敬意を払い、忠実に演奏することだ。楽譜を隅々まで理解して演奏を楽しむうち、さらに魅力的に演奏するための解釈が出てくる」
「そんな屁理屈、聞きたくありません!」

 桐原が席を立つと東も後を追い、部室のドアを勢いよく締めて出て行った。

 香川が指揮をするようになってから、幾度となく繰り返された光景だった。合奏の終了後、凪は音量が足りない自己嫌悪に苛まれながら、桐原と東の楽器を片付けた。

 松山時代を知る2年には、香川のやり方は受け入れ難い。多忙な松山は演奏会の2週間程前に楽譜を配り、数日前に出てきて指揮をし、何とか形にして本番に臨んだという。本番当日に楽譜をもらって、舞台に出た伝説の先輩もいたらしい。部員は楽譜の強弱記号などお構いなしに舞台で思いっきり鳴らし、気分爽快で終わるのが慣例だった。

 吹奏楽祭で演奏する「りんごの谷」は、松山の指揮で演奏した曲だけに、香川への反発は強かった。香川から厳しい注意を受けた部員は、桐原や東のように1人また1人と練習にこなくなった。第1を吹く2年が消えた楽器は、1年が吹く低音が目立った。

「明日、トランペットの先輩、来るかな?」桐原と東の譜面台を畳んでいる凪に、薫が尋ねた。
「来てくれることを祈るよ。私のせいだと思うと、申し訳なくて」

「でも、音が大きいって言われたら抑えればいいことで、あそこまで怒ることあるのかね。凪は、まだ1年なんだし、同じに吹けないよね。普通は向こうが気ぃ使うもんでしょ」

 薫には、思ったことを率直に口にする小気味の良さがあるが、先輩に聞かれて睨まれたこともある。凪は先輩が聞いていないかと同意するのを躊躇った。心安らぐことのない部で、好きなトランペットを続けるには、神経を使うしかなかった。

 薫は、グランドピアノの椅子に掛けてスコアに書き込みをしている香川に尋ねた。

「先生、もう戦力になる先輩がほとんど来なくなっちゃいましたよ。どうするつもりですか?」
「彼女達とは、合奏がどういうものかを理解してもらうために話をしている」

 香川はスコアから目を上げ、低い声で言った。凪は彼の窪んだ眼窩に、疲労の色が滲んでいるのを見てとった。
「理解してもらえない場合はどうするんですか?」
「それならやむを得ない。退部してもらう」
「厳しすぎやしませんか? 部活を辞めたら内申書に響くし」
「籍を残したければそれでも構わない。だが、仲間と音楽をつくる気がないなら、練習に出るのは遠慮してもらう」
「第1を吹く先輩がいないと曲になりませんよ。先生が先輩に謝って戻ってもらうほうがいいと思います」
「合奏を理解しない部員には、練習に出てほしくない」

 香川はきっぱりと言い切った。
「それなら、本番だけ出てもらったらどうですか?」
「本番だけ出てきて、練習で作り上げた演奏を台無しにされるのはごめんだ」

 彼は端正なマスクに軽い苛立ちを浮かべ、大股で音楽室を出て行った。凪は信念を貫き通せる彼が羨ましかった。自分にこんな気概があれば、裏校則の連鎖に加担しなかったし、先輩におかしいことはおかしいと言えるだろう。

 凪は去っていく広い背中を羨望の混じった目で睨みつけた。