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連鎖 1-(3)

 放課後の第2音楽室には、音が洪水のように溢れる。トロンボーン、クラリネット、ホルン、フルート、打楽器、先輩や同級生のおしゃべりの声……。もう何の音が混じっているかわからない。


「ねえ、このシミって全部ツバ?」                   前に座っているソプラノサックスのかおるが、にきび顔を近づけ、声を張り上げて凪に尋ねた。薫は凪と同じクラスで、クラスでも部活でも行動を共にする友人だった。凪が足元にに目を落とすと、黄土色の床に、歴代の先輩が管楽器から垂らした夥しい数のシミがあった。

「多分。そう考えると、気持ち悪いね!」                凪は、このシミには管楽器から垂れたツバの他に、裏校則に泣いた先輩の涙も混じっていると思えてならなかった。このシミを作った先輩達も、多かれ少なかれ裏校則の継承に貢献したのだろう。そう考えると、周囲から先輩の怨念が立ち昇ってくるようで、背筋がぞくっとした。


 A中は部活動が盛んで、運動部は春や夏の大会でたくさんの優勝旗を勝ち取っていた。厳しい裏校則は当然部活にも持ち込まれた。

 凪が所属する吹奏楽部ブラバンは全員が女子で、上下関係が最も厳しい部と揶揄されていた。吹奏楽部と聞けば、肺活量を鍛えるためのマラソンや腹式呼吸を支えるための腹筋が日課で、夏のコンクールに向け、休日返上で厳しい練習をするイメージがある。

 だが、A中吹奏学部は違った。部員の大半は、勉強やお稽古事に時間を割くために厳しい運動部を避けた面子で、残りの数名は小学校のときに金管バンドを経験した延長で入部していた。その顔ぶれなので、部活に青春を燃やす気など毛頭なく、おしゃべりをしたり、軽く楽器を鳴らしたり、好きな曲を合奏しながら時間を潰していた。吹奏楽コンクールには10年以上出ていないが、不満の声を上げる部員はいなかった。

 吹奏楽部は、上級生に有利な「伝統」に則って運営されていた。

 その一つが、1年生の楽器の決め方だった。入学したばかりの1年には、1ヶ月ほどの仮入部期間が設けられる。吹奏楽部を訪れた1年は、まず担当したい楽器を選び、先輩の指導を受けながら楽器を吹いたり叩いたりする。各楽器を担当できる人数には限りがあるので、先輩はこの期間中に、一緒にやっていく後輩を選別する。担当する楽器の決定は、仮入部期間後、つまり正式に入部届を出してから行われ、希望の楽器に決まらなかった1年生が、他の部に流れることを防ぐ仕組みになっていた。

 先輩が同じ楽器を奏でる後輩を選ぶ基準として、楽器の上達度は多少考慮されるが、最も重要なのは、先輩に気に入られるかであった。この期間に先輩に嫌われたら、希望の楽器に選ばれることはまず期待できない。先輩に嫌われた一年は、体が小さい、姉のお下がりの楽器を持っているなどは一切考慮されず、希望者の少ないチューバやユーフォニュームなどの低音楽器に割り振られる。そのせいか、こうした低音楽器には気が強くて反抗的なタイプか、周囲から除け者にされている子が多かった。
 フルート、クラリネット、オーボエ、サクソフォンなどの木管楽器は人気が高く、毎年様々な悲劇が生まれた。凪の入部した年は、自分の上達度を自慢していたクラリネット希望の1年生たちの態度が先輩の逆鱗に触れ、ユーフォニュームやチューバにまわされた。クラリネットに選ばれた1年は、実力は底辺でも先輩に気に入られていた子たちだった。楽器の割り振りが発表された直後、明らかに彼女たちより上達が早かったクラリネット希望の1年生は、悔しさを堪えきれずに嗚咽した。クラリネットに選ばれた子たちは、暫くは同級生から無視され、誹謗中傷に耐えねばならなかった。

 凪は入学式で聴いたオーボエの音色に魅かれて入部を決めたが、希望者が多いなか、第2希望のトランペットに割り振られた。同期でトランペットに配属されたのは凪1人で、将来はソロを吹くこともありそうだった。

 希望の楽器から外されて失望から抜け出せず、退部を考える同期もいるなか、凪はすぐにトランペットと恋に落ちた。マウスピースだけで音を出す練習をした後、楽器をつけて初めて音が出た時は言葉にできないほど嬉しかった。 

 凪はオーケストラや吹奏楽を扱うテレビ番組で、金管楽器のなかで一番音の高いトランペットが、華々しいファンファーレやソロを奏でるのを聴くと、背筋がぞくぞくするほど興奮し、自分がスポットライトを浴びる日を密かに夢見ていた。トランペットが吹けることで、少し成績が良く、足が速い意外、自慢できることのない自分に、新たな価値を加えられる予感がした。

 連休明けに、正式に部員になった1年生は、さらに不可解な伝統に直面する。3年生は、連休明けから夏の吹奏楽祭の数日前まで、受験勉強を口実に部活にこなくなるのが伝統だった。そして、秋の文化祭の数日前に部活に来て練習し、最後のステージを経て引退する。だが、実際は連休明けに引退したようなもので、部は2年生の天下になる。

 それを考慮し、毎年連休明けに、次期部長と副部長を選ぶ投票が行われた。だが、これもまた伝統で、投票できるのは2、3年生だけだった。凪は今後の部を担うのは1年も同じなのに、投票権がないことに疑問を抱いたが、胸に収めた。

 部長に選ばれた2年生は、物静かで、常に冷静さを崩さないクラリネットの熊倉くまくら、副部長は底抜けに明るい打楽器の安西あんざいだった。2年には、この2人よりも部長向きの人材がいた。だが、同級生の票を集めても、先輩から嫌われていれば十分な票を集められない。逆に、先輩に気に入られていても、同級生票もある程度なければ選ばれない。熊倉と安西は、3年と2年のどちらからも嫌われておらず、リーダーの適性もそこそこある妥協の産物だった。

 熊倉には部員をぐいぐい引っ張る指導力はないが、伝統に則って無難に部を運営できる生真面目さがあった。毎年、部長にはこのタイプが選ばれた。副部長も同じタイプが選ばれることが多いが、今年は屈託のない明るさゆえに、多少きつい注意をしても禍根を残さない安西が選ばれた。