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ピアノを拭く人 第1章 (6)

「無理ですよ。歌っていたのは10年以上前です。大学を卒業してからは、カラオケに行ったときと、一万人の第九に参加したときしか歌ってません。トオルさんの素敵な歌を聴いた後では、とても……」 
 彩子は、トオルの突然の提案にしり込みし、歌えない理由を並べてみる。他方で、彼の伴奏で歌ってみたい思いがむくむくと頭をもたげていることも否定できない。
「第九を歌ったなら、歌えますよ。上手く歌おうとしなくていいんです。僕は、今のあなただから歌えるオン・マイ・オウンが聴きたい、今のあなただから表現できるエポニーヌが見たいです」
 さらなる一押しを期待する気持ちを汲んでくれた言葉だった。彩子に、歌いたいという思いに抗する理由など見つからない。
「恥ずかしいけど歌います。よろしくお願いします」
 こちらこそお願いしますと目元で微笑むトオルに、彩子は頬が熱を帯びるのを感じた。そんな自分に戸惑い、反射的に背中を向けた。
 ピアノに背を向け、誰もいない店内を見わたすと、この静寂しじまに自分の声を響かせる恥ずかしさに襲われる。他方で、スポットライトを浴びて歌うときのように、体中の血がたぎるような高揚感もある。

 トオルのピアノで、発声練習のために恐る恐る声を出してみた。店内の音響がよいせいか、意外と自分の声が響くことに気分が上向き、彩子は振り返って尋ねた。
「テンポ、どうしますか?」
「好きに歌ってください。僕が合わせます」
 彼の瞳は、自分を信じろと言わんばかりに光を放っていた。
 

 ゆったりと前奏が始まる。
 学生時代、歌う前に感じたぞくぞくするような緊張感が全身を駆け抜ける。シャイな自分だが、この緊張感が嫌いではなく、むしろ楽しんでいた。
 あの夜の歌手のように、何があっても彼に支えてもらえる気がした。      
 彩子は、やるせなさと怒りを込め、思い切り歌うと決めた。

ひとりでも二人だわ
いない人に抱かれて
ひとり朝まで歩く
道に迷えば見つけてくれるわ

雨の歩道は銀色
かわも妖しく光る
闇は木に星明り
みえるのはどこまでもふたりだけ

 好きな人の気持ちが自分にない切なさに胸をひき裂かれながらも、せめて幸せな幻想にひたっていたい。そんな相反する感情を込めて歌う。
 ブレスを注意深く観察するトオルの視線を背中に感じる。トオルのピアノは、彩子がどう歌いたいかを瞬時に読み取るかのように、来てほしいタイミングで来てくれる。それが押し込めてきた彩子の感情を解放する手助けをする。
 
 大和を無邪気に愛していた日々は、喜びにあふれていた。どんな空も美しく、風や雨さえも優しかった。家族は優しく見守ってくれて、怖いものなど何もなかった
 そんな世界はもうどこにもない。そもそも、存在しなかったのだ。
 あるのは、大和が凡庸な自分を切り捨てた現実だけ……。

しってる夢見るだけ
話し相手は自分だよ
あのひと何も知らない 
だけど道はある

愛してる でも夜明けには
いない かわもただのかわ
あの人 いない世界は 
街も樹もどこも他人ばかりよ

愛しても おもい知らされる
一生夢見るだけさ
あの人あたしをいらない
幸せの世界に縁などない

愛してる 愛してる 愛してる
でもひとりさ


作詞 Alain Boublil 日本語訳 岩谷時子
作曲 Claude-Michel Schonberg

 誰も座っていないテーブルが、かすむ視界のなかで揺れている。
こみあげてくる嗚咽に吐きそうになり、しゃがみこむ。
 怒りの底に押し込めてきた深い悲しみが、ダムが決壊するようにあふれ出し、熱い涙になって流れる。

「すみません、僕が無理に歌わせたから、余計に辛くなってしまいましたね……」
 トオルが傍らに膝をつき、「余計なことをしてしまってすみません」と繰り返す。そんな彼には、先ほどまでの頼もしさなどみじんも感じられない。
 彩子は、嗚咽を抑えるのに精一杯で、口元を抑えて首を左右に振るしかできない。
 トオルが差し出してくれたタオルで鼻と口元を覆い、彩子はしばらく泣いていた。
 彼が彩子の背中をさすろうと手を伸ばしたが、思いとどまって静止したのがわかった。彼は自分の手で触れたら、汚してしまうと思ったのだろうか? 
 
 ようやく落ち着いた彩子に、トオルは温かいものを飲むかと尋ねた。彩子はそうしたら、また泣いてしまう気がし、丁寧にお礼を言って店を出た。

 木の間に浮かぶ月が、優しい光を放っていた。
 彩子は、自分は悲しかったのだと気づいた。                悲しみを正面から受け止めるのが怖くて、怒りと屈辱の底に沈殿させてきた。それが、歌うことで、攪拌されたように浮上したのだろう。

 車のエンジンをかけてから、彩子はトオルに返したグレイのタオルが、また戻ってきてしまったことに気づいた。涙と鼻水だらけのタオルは、最初に借りたときのように厄介なものに思えなかった。 

 駐車場を出るためにハンドルを切りながら、彼は今ごろピアノを拭いているのだろうかと思いを巡らせた。