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ピアノを拭く人 第1章 (12)

 手紙を書くために、トオルが明るくしていた照明が、彼の目元の疲労を悲しいほどに際立たせている。


 彩子は項垂れるトオルを前に、かけるべき言葉を探した。
 トオルにはこれからもピアノを弾き、歌い続けてほしい。彼の苦悩をほんの少しでも、自分が軽減できればと思う。それが、恋心からなのか、同情からなのか、また異なるものなのかは定かではない。だが、いくら手を伸ばしても、謝罪と感謝の言葉で覆われている彼の奥深くに触れたい思いは確かだった。

「トオルさん、私はあなたのピアノと歌が好きです。これからも、聴きたいし、またあなたの伴奏で歌ってみたいです。だから、どうかお体を大切にしてください」
 こんな陳腐な言葉が、いまの彼に響くとは到底思えない。彩子は、それ以上の言葉を絞り出せない自分がもどかしく、悔しかった。

「ありがとうございます。僕もお客様のために弾いているときが幸せです。そういっていただけるのが一番嬉しいです」
 トオルは背筋を伸ばし、彩子に体を向けて言った。
 彩子は、たとえそれが気丈な演技でも、彼がこたえてくれたことが嬉しかった。
「今日はもうやめて、温かいものでも召し上がって、お休みになってください……。随分、お疲れのように見えます」


 張りつめていた糸が切れたようにトオルの表情が緩んだ。
「いま気づきましたが、今日は朝から何も食べていません。昨夜から手紙を書いていて、2時間ほど眠りましたが、夢のなかでも手紙を書いていました。目覚めてからずっと書いていて、夕方から3時間ほどここで弾いて、その後はこの通りです……」
「それでは、お疲れになるはずです。もし、よかったら、何か食べに行きませんか? 実は私も、朝食に林檎を食べてから、何も食べていないんです。ああ、もうどこも閉まっているかもしれませんね。コンビニでも行きませんか?」
 彩子は急に空腹を覚えた。体もかなり疲れているはずだが、仕事で放出したアドレナリンがまだ体内に残っているようだった。


 トオルは、長い睫毛を伏せ、少し考え込んでから尋ねた。
「よろしければ、この店の海老ドリアを温めますので、いかがですか? 結構いけますよ」
「もちろん、食べてみたいです。ここのお料理はどれも美味しいし。でも、勝手に食べて大丈夫ですか?」
「大丈夫です。僕が食べたことにしておきます」
「2つもですか?」
 トオルはマスクのなかで笑って肯いた。
「僕は体がでかいので、いつも2人前は食べます」
「では、お言葉に甘えて、ごちそうになります」

 彩子は、トオルが冷凍庫から凍ったドリアを取り出し、手際よくオーブンに入れる間に、散らばっている便箋を拾い、テーブルの上を片付けた。便箋を揃えながら、彼の名前が吉井 透よしい とおるだと初めて知った。自分は彼のフルネームさえ知らなかったのだと苦笑いがもれた。
 
 ホワイトソースの匂いが漂ってくると、お腹が鳴りそうになり、彩子は息を止めてこらえる。
 透はミトンをはめ、自分のテーブルと、彩子のテーブルに熱々のドリア、サラダと水、ナプキンを運んできてくれた。時節柄、気を遣って距離をとってくれたことは理解できたが、彩子はその距離に少しがっかりしている自分に気づいた。 


 彩子が「いただきます」と手を合わせ、マスクを外すと、透もためらいがちにマスクを外す。
 彩子は初めて全貌をあらわした透の顔に、しばし釘付けになった。今まで見ていた形のよい眉と長い睫毛に縁どられた切れ長の瞳は、秀でた鼻梁、赤みの濃い唇と均衡が取れ、完成された芸術品のようだった。目元に漂う憂いは、彼の奥深くまで知りたいという好奇心を刺激する。

「すみません、本当は外に食べに行きたかったですよね。申し訳ございません」
 透はスプーンを置いて目を伏せた。
「いえ、とても美味しいし、大満足です」
「お恥ずかしい話ですが、僕は店員さんと接するのが怖いのです……」
 透は、スプーンを置いて続きを待つ彩子に、どうぞ召し上がってくださいと促し、マスクをかけて話し出す。
「過去に他人に無礼なことをした記憶に苦しめられて、これからはきちんとしようと思ったら、人と接するのが怖くなってしまいました。買い物をするときも、店員さんに十分にお礼を言ったか、正しい言葉遣いをしたか、話すタイミングが重ならなかったか、お札を出す向きが正しかったか、汚れたお札や硬貨を出さなかったか、失礼な言動があったら十分に謝ったかが気になるんです……。どれかが欠けているのに気づくと、戻ってもう1度買い物をして、先ほどはありがとうございましたとか、すみませんでしたと何度も言い添えないと、気になって何もできなくなるんです。それを伝えたら、お忙しい時に何度も申し訳ありませんと言い忘れたことに気づいて、また戻るという有様で……。店員さんが交代していて、お礼やお詫びができないと、気になって、その人がいるときにまた買い物に行ったり、手紙を書いたりしてしまうんです。そんな奇怪な行動を繰り返して他人に迷惑をかける自分が嫌で、できるだけ人と接することを避けているんです」
 彩子は、透の過剰な感謝や謝罪が、他人を困惑させている矛盾に気づいたが、いまの彼は自分が楽になることを優先せざるをえないのだと察し、胸に留めた。
「すみません、つい長々とつまらない話をしてしまって……」

 彩子はナプキンで口元を拭ってスプーンを置き、透の視線を捉えた。
「透さん、私には、そんなふうに些細なことを気にして、謝ったり、お礼を言ったりしなくていいですよ。羽生さんにしているように、自然に接してください」
「ありがとうございます。お気を遣わせてしまって申し訳ございません」
「ほら、そんなふうに謝らないでください」
「すみません」
「ほら、また」

「それでは、水沢さんに、1つだけ、お願いがあるんです」
「何でしょう?」
「便箋と封筒がなくなってしまったので、お時間のあるときに買ってきていただけませんか? もちろん、お金は払います。実は昨夜、手紙の文章に自信がなくて、羽生さんに電話とメールでしつこく相談して、切れられてしまって、いまは冷戦状態で頼めないんです」
「いいですよ。明日、持ってきます」