見出し画像

澪標 6


「笠原さん、この日付、どういうことですか?」

 運営部の柴田さんが、電話を保留にしたまま、営業部の笠原さんのデスクにつかつかと歩いてきて詰問した。

「Y大学に下見に行く日時、11月16日 午前9時とありますよね。先方は、6日、つまり明日のつもりで確認の電話をかけてきているんです」

 笠原さんは、ファイルをひっくり返し、必要事項を書き込んだ書類を取り出した。私は作業の手を止め、彼女の見つけた書類をのぞき込んだ。6日と書いてあった……。

「エクセルフォームに入力するとき、間違えたのかもしれません」蒼白な顔をした彼女は、消え入りそうな声で呟いた。

「とにかく、謝って日程変更してもらうから」柴田さんがデスクに戻り、保留を解除しようとした。

「待ってください。その日は、開学記念日で講義がないから、全教室を見てもらえて都合がいいと指定された日なんです……」

 柴田さんは頭を抱えた。「どうしよう、明日は、運営部で空いている人いないんです。広島だし、片手間で行ける距離じゃないですよね……。やっぱり、謝って別の日にしてもらいます」

 時計は16時を回っていた。

 そのとき、パソコンキーを忙しなく打っていたあなたが立ち上がり、空気を切り裂くような声で切り出した。「私が行きます。いま調べましたが、今夜の夜行バスに乗れば、明日の早朝に着けます。他にも広島方面に口説きたい大学があるので、いいタイミングです」

「待てよ。海宝は下見をやったことないだろ?」志津課長が口を挟んだ。

「私は入試担当を何年もしていました。何とかなります。Y大の仕事は大口です。信頼を失うわけにはいきません」

「うちのやり方があるんだよ。チェック事項が山ほどある」

 あなたは困ったように顎に手を当てた。志津課長は、周囲をざっと見回し、私に目を留めた。

「鈴木、行ってくれないか? 海宝はいい機会だから、一緒に行って、覚えてこい」

 あなたの眉間に困惑の色が走ったのを認めたが、私は即座に了承した。

 志津課長は、柴田さんに、伺う者は変わるが予定通りにと伝えるように頼んだ。

 あなたは、泣き出しそうな顔をした笠原さんに、「ちょうど、広島方面に口説きたい大学があるから好都合ですよ」と優しく言った。


              ★

 あなたと私は、朝7時に広島に着く夜行バスに乗り込んだ。次の日は、午前中にY大の下見を済ませ、午後は3つの大学を訪問し、その夜は広島市内のビジネスホテルに泊ることになった。

 あなたが私と2人になるのを避けたかったことは、ひしひしと伝わってきた。バスの座席に落ち着くと、気まずい空気に息が詰まりそうになった。

 あなたは書類に目を落として事務的な口調で言った。「明日の午後、あなたはD大に行ってくれませんか? 僕はA大とN大に行ってきます」

「A大は遠いじゃないですか。私が2つ行きます」

「先方と約束した時間と順路を考えると、僕が2つ行くほうが効率がいいです。僕はタフですから大丈夫です。弓道部にいたときから、志津よりずっと体力も集中力もありました。あなたは先にホテルにチェックインしてください」  

 あなたが私を寄せ付けない空気を強めたので、私はそこに切り込むように話し出した。

「笠原さんのことですが……」

「ああ、さっき志津と話して、笠原さんには大学関係からは外れていただいて、今までやっていた仕事に専念してもらうことにしました。今までの仕事は、確実にこなしていたようですから。彼女もそのほうが、気が楽でしょう」

 私も同じことを考えていたので、何も言うことはなかった。

「彼女の電話を聞いていると、いまいち押しが弱いというか、投げやりなところが抜けません。いまの仕事が向いていないのでしょう。僕から話をします。あなたは彼女が苦手でしょう」

「すみません。宜しくお願いします」

 笠原さんは私と1歳違いだったが、どこか退廃的な雰囲気をまとっていて、コミュニケーションが難しかった。私が言葉を尽くして指示や注意をしても、意図した通りに受け取ってもらえず、どう接していいかわからなくなることが多かった。

 あなたは、私との会話を長引かせたくない意志を顕示するかのように、乗車前に買った睡眠薬の箱を取り出した。「明日に備えて、眠っておきましょう。僕はこれを飲みますが、あなたはどうしますか?」

「いただきます」

 あなたは錠剤シートをぱちんと割って私に渡すと、ペットボトルの水で錠剤を飲み込み、スマホのアラームをセットしてから、コンタクトレンズを外した。私からできるかぎり体を離すと、腕組みをしてきつく目を閉じてしまった。

 鼻先でぴしゃりとドアを閉められた気がし、絶望が骨まで染み込んでいった。白い錠剤をペットボトルのお茶で乱暴に流し込み、目を閉じてみたが、至近距離にあなたがいると思うと眠れなかった。

 あなたの規則正しく上下する肩を見つめながら、かすかにもれる寝息を感じた。これほど近くにいるのに、あなたとの距離は途方もなく開いてしまったことを思い知らされた。目の裏に溜まった涙をこぼすまいときつく目を閉じ、座席に伝わる振動に身を委ねた。

 あなたと同じ錠剤を飲んだのに、落ちていくのは別の夢だった。


 バスを降りても睡眠薬の影響で頭がぼーっとしていた。だが、チェーン店のカフェで温かい珈琲とサンドイッチをお腹に収めると、徐々に頭が覚醒していった。トイレで歯を磨き、化粧を直し、グレイのパンツスーツに乱れがないかチェックし、エルバヴェールのハンドクリームを塗り直した。

 席に戻ると、あなたはサンドイッチをかじりながら、午後訪問する大学までの行き方をスマホで検索していた。めずらしく黒縁眼鏡をかけているので、いつもより目が大きく見え、ただでさえ整った顔立ちが際立っていた。

 約束の20分前に、タクシーでY大に到着した。開学記念日で休講なので、キャンパスは閑散としていた。運動部の掛け声が、遠くから風に乗って流れてきた。私は校門をくぐると、キャンパスマップを片手に、立て看板や掲示を出す位置に印をつけ、自動販売機の位置を書き込んだ。入試が行われる棟への導線を確認しながら、外部誘導員に立ってもらう場所を決めた。しばらく現場を離れていたが、昔取った杵柄で、体が自然に動いた。作業をしながら、あなたの視線を常に背中に感じていた。

 大学側の担当者に立ち合ってもらい、入試で使用する10教室をチェックシートに基づいてチェックした。電灯、空調の作動音、マイクの操作方法、張り紙をしてよい壁と使用できる資材、机と椅子の数と配置、遮光カーテンの有無、出入り口の開閉音、エレベーターの音が教室に響かないかなど、チェック項目はたくさんある。最初の教室は、手順を覚えてもらうために、あなたと一緒にチェックした。

 私が可動机を一つ一つ揺らし、揺らぎをチェックしながら、脚の下に入れるフェルトが必要な位置を書き込んでいるのを見て、あなたが何をしているのか尋ねた。

「ここは、床自体がへこんでいるので、机の高さを調節しても、別の机に変えても揺らいでしまいます。こういう場合は、調整用の丸いフェルトを入れます。必要な枚数は、登録スタッフさんに渡す配席図に記入して、設営時に対応してもらいます」私はジップロックからフェルトを取り出し、2枚入れて揺れがないことを確認し、チェックシートに枚数を書き入れた。

 次の教室から、あなたは積極的に動いて、サポートしてくれた。

 教室チェックの終了後、各階の男子トイレと女子トイレの数、障碍者用トイレの位置、混雑時の別棟のトイレへの誘導経路を確かめ、男子トイレを女子トイレに変更する階を担当者と相談して決定した。

「今日はあなたに頼りっぱなしでした……」最寄り駅まで歩きながら、あなたは穏やかな声で言った。流れていた重苦しい空気は、いつの間にか消えていた。

 私はそれに答えず、話をそらした。「古い大学なので、床のへこみが多くて、いつもより時間がかかりました。固定机だと、その心配はないのですが、椅子を一つ一つ上げおろして壊れていないかチェックしなくてはなりません」

「今度、僕も試験当日の現場を見せてもらいたいです」

「わかります、その気持ち。営業部は、契約したら、運営部にバトンタッチしてしまうので、実施まで見届けられないですからね。繁忙期には、試験当日、運営部の手伝いで、総本部に入ることもありますけど」

 あなたとは駅で別れ、それぞれの大学に向かい、夕方ホテルで落ち合うことにした。あなたの態度が以前のように戻ったことで、スキップしたい気分でD大に向かった。


               ★

「D大は、地方受験3会場の運営を任せてくれました」私はホテルのラウンジであなたに資料を広げて見せた。

「すごいですね。僕の方は、2大学とも、予算不足で今回は見送りでした」あなたが少し悔しそうなので、私は得意になった。

 夕食をどうするか尋ねようとしたとき、不意にあなたが切り出した。

「もしお疲れでなければ、せっかく広島に来たのですから、宮島に行ってみませんか? 紅葉が見頃だと思います」

「行きたいです!」昨日から蓄積していた疲労など、一瞬で吹き飛んでしまった。

               

 宮島は初めてだった。ライトアップされた厳島神社と大鳥居、その周辺を行き来する遊覧船の雅な美しさに、言葉が出なかった。平家一門が舟遊びをする情景が脳裡に浮かび、雅楽の音が耳の奥から聞こえてきた。姫君が焚き染めていた香はどんな香りだったのだろうかと思いを馳せた。

 島に渡るフェリー上からスマホのカメラを構え、夢中で撮影したが、実物の半分の美しさも収めることができなかった。がっかりしていると、あなたが言った。

「カメラがとらえた映像でしかなくなってしまうんですよね。本当の美しさは、目と心に焼き付けるしかないんです……」

 考えていたことをに言葉にされてしまい、力なく笑うしかなかった。

 宮島に上陸すると、海沿いに並ぶ明かりの灯された石灯篭が幻想的で美しく、日本人に生まれた幸せが湧きあがってきた。こんな神聖な場所に、あなたといられることに胸が熱くなり、一瞬、一瞬がかけがえのない時間に思えた。

 あなたは、丸くなっている2匹の鹿を見つけ、かがんで優しく撫でた。仕事中は見せない穏やかな横顔を、そっとスマホカメラで撮影してしまった。

「牡蠣は食べられますか?」あなたは思いついたように私を振り返って尋ねた。

「全然大丈夫です」

「よかったです。まずは、お腹を満たしましょう」

 あなたが案内してくれた店で、生牡蠣と焼牡蠣、焼き穴子、牡蠣ごはんを注文し、2人ともよく食べた。私の食べっぷりに、あなたは驚いていた。


 紅葉谷公園に上ると、ライトアップされた紅葉が織り成す雅趣に富んだ風景に圧倒された。赤く染まった紅葉は、残された命を懸命に燃やしているように思え、無性に愛おしかった。舞い散った葉は、土に還り、次に命を燃やすものの糧となる。

 私は幻想的な美に誘われるように、もみじ橋の上を歩き、ひらひらと落ちてくる赤いもみじを掌で受け止めた。

「すごく綺麗に撮れましたよ」

 あなたが撮影した私は、この上なく幸せそうな顔で、落ちてくる赤いもみじを受け止めようとしていた。舞い落ちるもみじの躍動が感じられ、あなたが夢中でシャッターを切ったことがわかった。

「それ私に送ってください!」

 お礼に、あなたが鹿を撫でている写真を送信すると、あなたは「いつの間に……」と驚いていた。

「着物をレンタルすればよかったですね……」あなたは私の写真をしげしげと眺めながら言った。

「え?」

「着物姿でここを歩くあなたを見たいです」あなたは目を細めて私を見ていた。

 あなたと再びここに来て、着物姿で橋の上を歩く自分を想像した。それが実現するかを考えると、夢から冷めてしまいそうで、いまこの瞬間を楽しむことに強引に意識を戻した。


 私たちは石灯篭の並ぶ海辺に置かれたベンチに落ち着き、対岸の夜景を眺めた。時折、遊覧船が視界を横切っていった。少し離れたところで、鹿が一匹丸くなっていた。

「あなたは、北関東出身だと言っていましたね」

「はい、栃木県小山市です。工業団地のはずれに、古くからの農家が点在しているようなところです」

「東京に出てきたのは?」

「大学に入学したときです」

「僕も同じです。実家にはよく帰るんですか?」

「いえ……」

 決して遠くない距離でありながら、帰るのは年に1度で、1泊しかしない。家族と仲が悪いわけではないが、実家に帰ると抱えている悲しみを呼び起こされてしまうので、どうしても足が遠のいてしまう。

 私が背負い出した空気に何かを感じたのか、あなたは低い声で言った。「何か重いものを抱えているようですね」

 口ごもる私に、あなたは「無理に話さなくていいですよ」と優しく言った。海風がさっと横切り、磯の匂いを鼻腔に残していった。

 ずっと言語化できないまま私を支配していた悲しみも、あなたなら理解してくれるのではという思いに突き動かされ、言葉を選びながら話し出した。

「家族と仲が悪いわけではないんです。虐待とかネグレクトをされたわけでもありません。何不自由なく育てられて、傍から見たら何も問題ないと思います……。贅沢だと言われることはわかっているのですが……」

 あなたは黙って頷いた。

「私は家族が、私自身が望むような人生を歩めず、家族を失望させてばかりでした。家族から責められたことはありません。それでも、言葉にされない分、彼らの失望や悲しみがひしひしと伝わってきて、自分が情けなくて仕方がないんです」

「ご家族は、あなたに何を望んでいたんですか?」

「うちは、教員の家系でした。父方の祖父も母方の祖父も校長で、祖母2人も教員でした。両親も教員でした。両親とも地元で一番の進学高校に難なく入り、有名大に進学しました。両親は文武両道で、生徒会長や学級委員などに選ばれるのは当たり前で……。当然のように、私にも同じ水準が期待されました。年老いた母方の曾祖父は、優秀な母を溺愛していて、お母さんのようになれ、お母さんをいじめるなが口癖でした。私もそのつもりでしたが……、私はあまり優秀な遺伝子を受け継がなかったようで、努力しても成績は中の上、運動も得意とは言えない子でした。地元の進学校に落ちてしまい、大学は古いだけが自慢の三流女子大でした。地元で教員や公務員になるのがエリートだと認識している家族は、私の就職先にも失望しています」

 夜風が冷たくなり、辺りを通る人もまばらになった。私はトレンチコートの前をきつく合わせた。

「進学高校に落ちたとき、私を可愛がってくれた母方の曾祖父を始め、家族の落胆は言葉にできないほどでした。そのときどんなにショックだったかを、今でも言われるほどです。母方の曾祖父と祖父母に、滑り止めの高校の制服を見せにいったとき、『この家にこんなことがあっていいのかい、何かの間違いだよ』と祖母が泣きだして……。私を直接責めない代わりに、お母さんが気の毒だねとみんなで頻りに言うんです。打ちひしがれている私よりも、母を気の毒に思っていることが刺さりました。私が育った父方の実家は、近所でも一目置かれる家でした。狭い田舎なので、私の学校の同級生の両親には、父の同級生がたくさんいて、私が優秀だと当然のように思っていました。祖父母が近所で散々、父の自慢をしてきたので、私が優秀ではなく、進学校に落ちて、彼らに肩身の狭い思いをさせてしまいました……」

 鹿が歩いてきて、私たちの前で丸くなったので、私はその背をそっと撫ぜた。

「大学受験の頃には、家族はいろいろなことを諦めていて、『どこでもいいよ……』と悲しみを押し込めた声で言われました……。父と母は、五体満足なのが一番だからねが口癖になり、自分たちを納得させようとしているのがひしひしと伝わってきました。最大限の優しさだと思うのですが、家族の夢を一つ一つ諦めさせていった自分が悲しいです。そんな悲しみが、子供の頃から私のなかにどんどん蓄積されていって……、私のマイナス思考を形成しているんです。それが嫌だと恋人に捨てられたこともありました。仕事が安定してから、いくらか自信がついたのですが、実家に行くと、沈んでいた悲しみが全身に回り始めてしまうんです」

 言葉にしてみると、出来の悪い娘の愚痴に過ぎず、つまらない話を聞かせてしまったと恥ずかしくなった。

「すみません。どうでもいい話を長々と……」

 あなたは大きく首を左右に振った。

「家族から言葉にされたことはなくても、望む通りになれない悲しみは、おりのように蓄積されていくんですよね。僕も父の理想とした頑健な体のスポーツマンにも、船乗りにもなれなかったので、あなたの話が自分のことのように響きました……。父は幼い僕に自分の好きな柔道やサッカーを習わせたのですが、僕は下手で怪我をしてばかりで、父を落胆させ続けました。僕が唯一続けられたスポーツは、父の関心のない弓道でした。僕が物静かで本ばかり読む子になるにつれ、父はそれに比例するように無口になり、仕事に邁進しました。父とは、どちらかが悪いわけではないのに、互いを蝕む悲しみを蓄積させてしまう悲しい関係でした。自分の殻にこもってしまった父が、僕をどう思っているのかを知りたかったけれど、知るのも怖い気がして、そのまま永遠に別れてしまいました……」

 あなたとは、アイデンティティ形成の根幹にある悲しみが似ているので、互いに届く言葉を持っているとわかった。ずっと血を流し続けていた傷に包帯を巻いてもらったような安堵で、目頭が熱くなった。私はベンチから立ち上がり、石灯篭の陰で深呼吸して涙を堪え、鼻をすすった。

 背後から、右肩に遠慮がちに手を置かれた。

「我慢しなくていいんです……」あなたは背後から私の両肩を掴んだ。

 肩に伝わる力強さと、この上なく優しい声に、堪えていた涙があふれ、あなたの胸に顔を埋めた。あなたは肩を震わせる私を覆いかぶさるように抱き締めてくれた。

 堰き止めてきた思いが、ダムが決壊したように溢れ出し、もう止めることができなかった。

「好きです……、初めて会ったときから」

 私は涙だらけの顔を上げ、あなたを見つめた。

 あなたは目を伏せ、私の手にハンカチを握らせた。

「今のは聞かなかったことにします。あなたは、かけがえのない仕事のパートナーです」

 あなたは「そろそろ、フェリーがなくなります」と私を促し、乗り場に向かって歩き出した。ベンチの脇にいた鹿が身を起こし、あなたを追うように歩いていった。