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ピアノを拭く人 第4章(6)

  真一の白いBMWを追いかけ、着いた先は彼の父が住職を務めている寺だった。砂利の敷かれた駐車場に車を入れると、電灯の光に照らされ、真一が大きく両手を振りながら近づいてくるのが見えた。
「お寺だとは思いませんでした」
 真一は目元を緩めてかすかにほほ笑み、先に立って歩き出す。
「足元、気を付けてくださいね」
 彩子は砂利にヒールを取られないよう、用心しながら真一の背中を追った。
 肌を刺すような風が、寺を守るように繁る木々をざっと鳴らす。記憶の底に眠っていた音だった。血縁を感じる場所に来たことで、家族や親戚のことが止め処なく思い出される。墓参りや法事の思い出が、時系列を成さずに浮かんでは消えていく。法事の後の宴席で、親戚に出来の良い兄と比べられ、医療系の専門職一家のなかで肩身の狭い思いを何度もしたはずなのに、なぜか懐かしい。
 真一と友人でいると報告したとき、電話越しに聞いた父の感情を押し込めた声が不意によみがえり、胸を締め付ける。

 

 真一は、本堂の正面にある階段をのぼっていった。
「靴を脱いで、上がってください」
 真一は冷え切った本堂を暖めようと、電気ストーブのスイッチを入れた。
彼に続いて本堂に入った彩子は、しんとした冷気に包まれた。足先から冷えが伝わってきて、身が縮みそうになる。

 真一は宇宙を仰ぐように上を向き、深呼吸した。
「私は迷いがあるとき、ここで座禅を組みます」
 静謐な空間に、真一の低く良く通る声が厳かに響いた。
「あなたに何があったかは聞きません。でも、聡明なあなたなら、ここで自分と向き合って、答えを出せるのではないかと思ってお連れしました」
 

 本尊やきらびやかな仏具を前に、線香の残り香がたゆたう厳粛な空気の中に身を置くと、彩子の身体は自然と引き締まっていく。確かに、ここで自分の気持ちと向き合えば何らかの答えを出せるかもしれない。
「私は信仰には縁のない人間ですが、ここにいると、自分の心の奥底まで掘り下げられる気がします。少しだけ、1人でここにいさせていただいてもいいですか?」
「もちろんです。好きなだけ、いてください」
 真一は電気ポットのスイッチを入れ、緑茶ティーバッグと急須、茶碗を戸棚から出した。思いついたように、戸棚からボックスティッシュを取り出し、ゴミ箱まで持ってきてくれた。

「家族には、ここに近づかないよう言っておきます。帰るときは、私の携帯にメールして、そのままお帰りいただいて構いません。あ、お知らせしていませんでしたね」
「いろいろありがとうございます。Lineでもいいですよ。交換しませんか?」


 彩子がスマホを取り出し、LineのQRコードを出そうとしたとき、真一が険しい声で切り出した。
「すみません。いま待ち受け画面が見えてしまったのですが……」
「ああ、これ……」
 透とクリスマスイブの夜に撮った1枚だった。
「もしかして、フェルセンの吉井透ではないですか?」
「ええ、そうですが。ご存じなのですか?」
 彩子は驚いて尋ねた。
「お付き合いしているのですか?」
 彩子は肯いた。
「失礼ですが、私は彼に良くない印象を持っています……」
 真一は露骨に眉を顰めた。
「どういうことですか?」
 彩子はむっとして尋ねた。
「3年ほど前でした。中学の生徒会で一緒だった女友達が、フェルセンで吉井に声を掛けられ、デートする関係になりました。彼女は彼にぞっこんで、散々尽くしていたそうです。けれど、あるとき、別れ話もなしに携帯番号を変えられ、フェルセンで話しかけても、いないように振る舞われるようになったのです。その頃、彼女は妊娠の疑いがあり、吉井に相談したがっていました。まあ、結局、妊娠はしていなかったのですが……。吉井は、そんな状態の彼女の話を聞こうとせず、これ以上つきまとうなら警察に通報するなどと言ったのです。彼女に相談された私ともう1人の生徒会仲間は、あまりの仕打ちにいきり立ち、吉井に直談判に行って、彼女の代わりに一発お見舞いしてきました。あいつに、ひどい目に遭わされた女性は他にもいるはずです」
 彩子は、どう答えていいかわからず、視線を足元に落とした。
「あんな奴、外見がいいだけのクズ男ですよ!」
 品行方正な真一に、ここまで怒りを露わにさせた過去の透の言動にショックを受けなかったと言えば嘘になる。だが、イブの日に透からそれをにおわせる話を聞いていたので、クッションはできていた。

 透はこうした過去に罪悪感を抱き、強迫性障害になったのではないだろうか。それなら、彼はもう十分すぎるほど苦しんだのではないか。
 彩子は、自分が無意識に透を庇っていることに気づいた。

「気を悪くしたら、申し訳ございません。でも、私は彩子さんまでひどい目に遭わないかと心配です。ご両親も心配すると思います」
 両親のことを思い出し、胸が痛んだ。だが、彩子は真一の目を真っ直ぐに見て言った。
「ありがとうございます。でも、私もいい大人なので、自分で判断できます」
「すみません、余計なことを……」
 真一は彩子とLineを交換すると、何かあったら遠慮なく言ってほしいと言い残して出ていった。


 1人になると、彩子は本堂の中央あたりに正座した。
 夜の静寂しじまに、電気ストーブの運転音と、電気ポットの水が沸騰する音のみが、かすかに響く。静寂せいじゃくと厳粛な空気に圧倒されそうになり、深呼吸を繰り返した。落ち着いてくると、そっと目を閉じた。

 浮かんでくるのは、出会ってからの透の姿だった。

黒いスーツ姿で、目を吊り上げてピアノを拭いていた長身痩躯の男性。 

失恋した自分に寄り添う伴奏で、オンマイオウンを歌わせてくれたトオル。

強迫症に苦しみ、死を考えるまで追い詰められ、涙を流す透。

果敢にエクスポージャーに挑むも、襲ってくる強迫観念に振り回され、強迫行為をしてしまう様子。

クリスマスイブにオムニア アメジストをプレゼントしてくれた彼。

強迫症のために家から出られない人に、勇気を出して治療を受けるよう呼び掛けるために仲間をまとめる姿。

試行錯誤の末、自分なりに強迫観念に対処する方法を見つけた力強さ。


先のことなどわからない。だが、今は透を傍で見守っていたい。


 彩子はそっと目を開き、目が明るさに慣れてから、スマホを取り出した。
「もしもし、すーちゃん……」
 大晦日に、透とのことをすべて聞いていた鈴木は、彼に嘘をつかれていた話を黙って聞いてくれた。
「彩子のなかで、もう答えは出てるじゃない」
 鈴木は本堂の静けさに似つかわしい穏やかな声で言った。
「うん。私、間違っていると思う……?」
「そんなことないよ。透さんは、はっきり言ってくれたんでしょ。彩子と幸せになるために治りたいのが一番の気持ち。赤城先生への憧れは、治療を進めるために利用したって」
「うん、そうだけど……。彼女の存在が、これからも立ちはだかると思うと……」
 鈴木は、わかるよと頷いた後、いつもより低い声で話し出した。
「手の届かない相手、手に入らなかった相手は、確かに美しく心に残り続けるかもしれない。私たちは互いの中に、美しい記憶として残るかもしれない」
 彩子は鈴木が自分の経験を話していることに気づいた。
「けれど、彼の奥さんは、これからずっと彼と時間を重ねて、同じものを見て笑ったり、泣いたり、怒ったりできる。そこで2人に芽生える愛情は、現実の生活に根差した力強いもの」
 鈴木は決意に満ちた声で言い継いだ。
「本当に愛されているのは自分だという思いに縋っても、私は一緒にいられる奥さんが羨ましい。だから、私もずっと一緒にいられる大切な人を見つけて、地に足をつけて生きていくよ。そんな相手がみつかったら、私は心から彼の幸せを願えると思う」
「うん、すーちゃん、ありがとう。すーちゃんは、絶対幸せになれるよ」 彩子は親友を心から誇らしく思った。
「ありがとう。赤城先生が患者に恋心を抱くなんてありえないと思うから、ちょっと話は違うけどね。彩子は透さんと現実を一緒に生きられるんだよ」

 彩子は電話を切ると、真一に心からのお礼と帰宅する旨のLineを入れ、本堂を出た。