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巡礼 6-(1)

 都はベンとアイリスに伴われ、リトル・トーキョーの全米日系人博物館を訪れた。展示物や写真は、百年以上前に渡米した同胞とその子孫がこの地で歩んだ軌跡だった。都はその空間にいるだけで、語りかけてくる同胞の声が聞こえるような気がした。

 館内では、週1回ボランティアに来ているジョーという78歳の二世が案内してくれた。3人は、都の鑑賞を邪魔しない程度に解説を加えてくれた。MIS出身のジョーは、都が日本から来たと聞き、占領期の東京の様子を話してくれた。薄暗い照明の下、当時を伝える展示品や写真を眺め、時代の生き証人に伴われていると、都は時間が交錯するような感覚に包まれた。

 展示を見終わった都は、マンザナーを訪れたときに湧いた思いを新たにしていた。もちろん、アメリカ政府の日系人に対する理不尽な仕打ちに日本人として怒りを覚えた。家を追われ、重い手荷物を抱え、収容所行きを強いられた日系人の憔悴した面持ちは胸を締め付けた。50年近く経ってから、政府が公式に謝罪し、金銭的な賠償をしても、痛みを完全に消し去ることはできないだろう。


 だが、それ以上に都の胸に迫ったのは、理不尽な状況に追い込まれても、そこで精一杯生きた彼らのしなやかな強さだった。収容所で使われていた家具や衣類、復元されたバラック、二世が着ていた軍服と向き合うと、彼らが過酷な環境に置かれても、未来を切り開くために精一杯生きたことが伝わってきた。


 都はこの博物館は苦難の道を経た日系アメリカ人の歴史を展示するだけではなく、市民的自由がいとも簡単に奪われてしまうことに警鐘を鳴らし続けるだろうと思った。だが、それだけではない気がした。ここは、自分のように理不尽な運命に苦しむ者に、それに立ち向かう力を与えてくれる場所でもある。


 外に出ると、都はもう1度、博物館を振り返った。ジャップと迫害された時代を乗り越え、彼らの歴史を堂々と展示できる博物館を建てられたことは、日系アメリカ人にとって大きな誇りだろう。同じ日本人の血を引く都も心底誇らしかった。


 3人は閑散としたリトル・トーキョーを歩いた。都は日本人の友人とここに来たことがある。そのときは、なぜ日本の店が集まっているかを深く考えず、日系のスーパーマーケットで日本の食材が手に入ることを喜んでいた。
だが、今はここが存在することに格別な思いがあった。日本人から見れば、おかしな日本趣味を集めた場所かもしれない。しかし、都は本格的な日本情緒を作り出すよりも、日系移民がアメリカに根を下ろし、アメリカの多文化主義を豊かにしたことを伝える場所であるべきと思った。そう思うと、以前はどこか違和感を抱えながら眺めた街並も、日本ではあまり見かけなくなった二宮金次郎像も愛おしく映った。

「戦前のリトル・トーキョーは、いろいろな訛りの日本語が飛び交う活気ある街だったのよ。日系人は最も多いときで3万人くらい住んでいたそうよ」
「僕は西ロサンゼルスで育ったけど、特別な日には家族でリトル・トーキョーに来て日本料理を食べて、日本映画を観るのが楽しみだったよ。そんな家族は、多かったと思うよ」
「戦後、日系人が戻ってくると、少しずつ再建が始まったわね。60‐70年代に日本が経済成長を遂げると、日本資本で再開発が始まったの。その結果というと……、私達の場所というよりも、観光地に変わってしまったわね……。80年代後半から90年代初めは、日本からの観光客がたくさん来て賑わっていたわ。最近では、日本の不況のせいもあってすっかり寂しくなってしまって、韓国系や中国系が経営する店が増えたわね」
「日系アメリカ人や日本人は、ガーデナやトーランス、グレンデール、パサディナに住むようになったからね」
「アメリカに残っているジャパンタウンは、こことサンフランシスコ、サンノゼくらいかしら。それだけ日系がアメリカに同化したってことよ。それでいいのよ」
「この辺りに住んでいなくても、二世週祭にはあちこちから集まってくる。それで十分だ」


 都は世代が代わっても、ここが日系アメリカ人の活気であふれていてほしいと思った。だが、ここに閉じこもっていた時代を乗り越え、アメリカ社会に居場所を作った歴史を考えると、自らのルーツを求めて集まってこられる場所で十分な気がしてきた。