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ピアノを拭く人 第1章 (3)

 いつもより早めに出勤した彩子は、段ボール箱を抱えて駐車場に向かう。
幾重にも重なる山並みに、霧がかかっている。空気が先週よりも冷たく、秋が近づいていることを示唆している。紅葉に染まった山が見られる日も、そう遠くないだろう。
 大和に肩を抱かれ、燃えるような山並みを眺めた日が胸を過る。この先、恋人ができても、無邪気な信頼を胸に、赤く染まる山を眺めることは、永遠にできない気がする。
 朝陽が腫れた目に刺さる。昨夜9センチのピンヒールで歩きまわったせいで、ヒールの高さがほとんどないパンプスで立っているのも辛い。雨に打たれ、風邪をひかなかったのがせめてもの救いだろう。このご時世、風邪をひくと厄介だ。
 会社を休んで寝ていたかったが、たった3人でまわしている試験監督専門の派遣会社の北関東事業所では、そうはいかない。


 今日は隣県で試験監督員希望者の登録会を開く。
 彩子が運転席につくと、同僚の矢島やじまさんが、コンビニのカップコーヒーを片手に助手席に乗ってくる。少し遅れ、後部座席に所長の黒沢くろさわさんがどっかりと腰を下ろす。互いにマスクをかけていても、彼のきつい口臭は遮れない。
「本社もずいぶん、手を広げてるよな」
 車を発進させると、黒沢さんが眠気覚ましのガムをくちゃくちゃ噛みながらぼやく。
「ここのところ、どんどん契約取ってきますよね」
 矢島さんが、不織布のマスクを下げ、珈琲を一口すする。マスクをしている彩子にも、ふんわりとコーヒーの香りが届く。
「おかげで、人が全然足りなくて、ずいぶん登録会増やしたよな。明日は小山だっけ?」
「いえ、水戸ですよ。登録希望者少ないから、黒沢さん1人でも大丈夫じゃないですか? 私は明日、クライアントと打ち合わせが入っちゃいました」
「何だよ、それ。じゃ、水沢みずさわ、明日も運転手頼むよ。このご時世、電車は避けたほうがいいし」
「そんな長距離、勘弁してください。次は、黒沢さんの番ですよ。私、いま、心も体もぼろぼろなんですから」
「なんで? 週末、彼氏と会ったんじゃないの? いつも、幸せパワー全開じゃない」矢島さんがマスクをかけ直しながら尋ねる。


 3人が始終顔を突き合わせている職場では、隠していても、いずれはばれる。
「昨日、ふられちゃいました!」
「うそ、ごめん。まじで?」
「水沢の彼氏って、東京で弁護士やってるやつだよな?」
「そうそう。脱サラして、司法試験に挑戦して、見事合格した好青年。写真見せてもらったけど、高橋一生似の優しそうな人でした」
「1年も二股かけられてたんです。相手は弁護士。一緒に新しい事務所を立ち上げるらしいです。家政婦と同志を天秤にかけて、選んだのは同志!」
「なにそれ、最っ低! 水沢さん、そんな奴と別れられてよかったじゃない。私たち、もう三十路だし、貴重な時間をこれ以上、奪われなくてよかった。お互い、早く大切にしてくれる人に出会って、幸せになろうね」
 矢島さんが自分のことのように憤ってくれたことが嬉しく、視界が歪む。
「でも、もったいなかったな。弁護士様なんて、こんな田舎じゃ、そう出会えないぞ。気が変わって、戻ってきたら許してやれよ」
「何言ってるんですか! そんな二股男とより戻したら、いいように扱われるだけじゃないですか! 自分の娘がそんな目にあっても、同じこといいますか?」
 矢島さんに一喝され、黒沢さんが肩をすぼめる。

 彩子は大きなため息をつく。両親に大和を紹介したとき、2人は大喜びし、絶対に離すなと念を押した。何かあるたびに、結婚はまだかと、しつこく聞かれるのが鬱陶しかった。別れたと知れば、黒沢さんと同じことを言うかもしれない。


 何度も経験した登録会は、滞りなく進む。
 長机に十分な距離をとって席を設け、登録用の書類をセットできたら開場する。登録希望者に手指の消毒と検温をお願いし、済ませた人を席に誘導する。
 登録会に集まる人の背景は様々だ。
 平日仕事をしていて休日に試験監督をしたい人、フリーター、定年退職者、就職活動の合間に試験監督をしたい人、ときどき仕事をしたい主婦、大学生……。
 二度と会わないかもしれない老若男女と、受験者のために力を合わせ、無事に試験を終えたときの達成感がたまらず、彩子は登録者から正社員になった。本社で5年勤務した後、故郷の事業所を希望して配属され、はや5年が過ぎた。


 時間がくると、黒沢が就労条件等を説明する。納得した人には、書類を提出してもらう。
 書類を提出した人には、1人ずつ前に出て、マスクを外し、注意事項のアナウンスを読み上げてもらう。黒沢さんは、会場後方に立ち、声が届くかをチェックする。
 彩子はアナウンステストを終えた人を隣室に1人ずつ誘導する。隣室では、数十枚の書類を数えるテストが行われる。矢島さんが、数える速さと正確さをチェックする。
 これらに合格した人が登録でき、本社からメールで求人案内が届く。

 

 事業所の仕事は、登録会開催と登録者のデータ入力、本社が契約した域内のクライアントとの打ち合わせがメインになる。試験会場リーダーや副リーダー、監督員、誘導員の人員配置は本社が行う。

 大学時代に登録者として現場を経験し、社員として本社も事業所も経験した彩子は、たいていの仕事をこなせる。もっとも、ほとんどの人は慣れれば問題なくできる仕事で、高度な資格が要求されるわけではない。
 

 昨夜までは、それに疑問を抱かなかった。
 だが、大和が自身と同じ弁護士の女性をパートナーに選んだことは、彩子の胸を深く抉った。