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澪標 5


 あなたは霧にけぶる海を凝視していた。私は傘を打つ雨音を聴きながら、黙って寄り添った。あなたの濃紺の傘が邪魔をし、表情はよく見えなかったが、声を掛けてはいけない気がした。

 高台から眺める横浜港やベイブリッジは霞み、輪郭が揺らいでいた。小さな観光船が、霧に飲まれるように視界から消えていった。あなたと陽光を浴びてきらきらと輝く海を眺め、吹き渡る潮風を頬に感じたかった私は、生憎の天気が恨めしかった。

 他方で、雨が降ったことで立ち上る土の匂いを吸い込むと、自然の力を体内に取り込んでいる爽快感があった。恵の雨を受けた植物の生命の躍動が感じられ、バラは秋の開花に向けて、力を貯えているように映った。

 土の匂いにいざなわれるように、実家の畑の記憶が数珠つなぎに浮かぶ。胡瓜や茄子、とうもろこしを作っていた広い畑。少し先の林には、コウモリの巣があり、夕方になると戻ってきたコウモリが頭上を飛び回っていた。


「今日は香水をつけているんですね」公園を出たころ、あなたがぽつりと言った。

「はい、ロクシタンのエルバヴェールです。ホーリーグラスをはじめとするハーブの香りが気に入って愛用しています」

「緑の香りが瑞々しくて、地に足をつけて立っているあなたらしい」

「課長も今日はつけていますよね?」

「あなたとの外出なら、つけても大丈夫だと思いました」あなたは安心した少年のような声で答え、それが私の胸をきゅっと締め付けた。

「匂いって、それと結びついている記憶を呼び覚ますと思いませんか?」

「わかります。どれだけ時間がたっていても、知っている香りがふっと漂うことで、沈んでいた記憶がよみがえることがあります。匂いは、他の感覚器にはない方法で、記憶を刺激するのかもしれませんね」

「はい。課長は雨の匂いで何を思い出しますか?」

「僕はムクドリですね」

「ムクドリですか?」

「学生の頃、研究室の周囲の木々にムクドリの巣があって、夕方になると戻ってきたんです。空が真っ黒になるほどのムクドリが上空を旋回していて、鳴き声もやかましくて、アレルギー持ちの奴は外に出られないほどでした。木々の下のタイルは、羽毛が散らばり、糞の染みでいっぱいで、歩くのが嫌でした。雨が降ると、その匂いが強烈に立ち昇るんです。雨の匂いと、その匂いは僕のなかで分かち難く結びついているんです。いま、新松戸に住んでいるのですが、街路樹にムクドリの巣があって、学生の頃と同じ状態です。僕はよくよくムクドリに縁があるみたいですね」
 あなたは、情緒も何もないですねと笑った。

「それなら、雨の匂いがしたら、今日私とここに来たことを思い出してください。私のまとっていた香りも一緒に。ムクドリよりはましでしょう?」

「そうですね。今日から塗りかえることにします」

 あなたの足取りが軽やかになり、私は全身に鳥肌が立つような歓喜に襲われた。自分があなたにとって特別な存在だという自惚れを止めることができなかった。



「さっき、何を考えていたんですか?」雨に濡れる外国人墓地を散策しながら、私は深緑色の傘をかしげて尋ねた。

「うん?」あなたは訝し気に私を振り返った。

「港の見える丘公園で、海を眺めているときです」

「ああ、退屈させてしまいましたか? すみません」

 私は小さく首を横に振った。決して退屈などしていないことは、言葉にしなくても伝わっている確信があった。

「お父さまとの思い出の世界にいたのですか?」

 あなたは、形のよい眉をぴくりと上げたが、それには答えずに言った。「あなたが黙っていてくれたから、いろいろ考えることができました」

 あなたは傍らの墓石に触れ、そっと撫でた。私は濡れた指先を持て余すあなたに、タオルハンカチを差し出した。あなたは驚いたようにそれを受け取り、丁寧に指先を拭ってから、ありがとうと返した。

 祖国を遠く離れた場所で永遠の眠りについた人々の空間は、静寂に支配されていた。私は石に刻まれた英語を目で追いながら、雨音の隙間から、彼らの声が聞こえないかと耳をこらしたが、ただ静かだった。目を閉じ、彼らの生前の姿、生きた時代を想い描くしかできなかった。

「彼らは、ここで安らかに眠れているのかな?」あなたは死者を起こさないよう配慮するかのような低い声で言った。

「わかりません。でも、そうあってほしいと思います」

 あなたは、私に顔を向けて深く頷いた。

「僕の父は、商船の航海士でした。働き盛りのときに、心臓発作で病院に運ばれて、意識がもどらないまま翌日亡くなりました。遺灰は、母の願いで海に撒きました。あの人は、土に還るよりも、世界中を航海したいんだと……。僕も弟もそれでいい気がしたんです」

「そうでしたか……。海に来ると、お父さまに会えるんですね」

「ええ。でも、死者は何も言わないんです。父は年を重ねるにつれ、寡黙になりました。仕事と自分の殻にこもって、僕たちともあまり話をしたがらなかった。遺言など遺していたはずもないから、送り方は残されたものの自己満足だったかもしれないですね……」

「それでいいと思います……。どんなに話しかけても、亡くなった人はもう何も言ってくれないのですから。たとえ送り方が、亡くなった方が望んだことと違ったとしても、残された方がその方を思って決めたならそれでいいと思います」

「そうですね。死者は、どんなに話しかけても、答えてくれない。だから、振り回される必要もない」

「ええ。死者との対話は、自分の心との対話なのかもしれません……」

 私は、あなたのこわばった横顔を見ながら、亡くなった父親に複雑な感情を抱えているのではないかと思った。


 墓地を出て、坂を下りながら、あなたは私を振り返った。

「あなたと話していると、心の深いところで燻っているものがほどけて、視界が広がっていきます……」

「何か哲学的ですね。良いほうにとるべきか、悪いほうにとるべきかわかりません」

 私は自分があなたの中で占める位置に自信があったが、明確な言葉を引き出そうとしていた。

 あなたは、それに答えず、歩調を速めて坂を下っていった。雨脚は、あなたの歩調と共鳴するように強まっていった。

「また、こうして出かけられますか?」

 私は遠ざかっていくあなたの濃紺の傘に問いかけた。あなたは聞こえなかったかのように、歩調を崩さなかった。

 私はあなたに追いついて、傘の柄を掴んだ。あなたは困惑したようにしばらく黙っていたが、私の手元に視線を落とし、くぐもった声で言った。

「危険なんです……」

「何が危険なんですか。私たち、ただの公園仲間です。指一本、触れていないじゃないですか」傾げた傘からぽつぽつと落ちてきた水滴が、私とあなたの肩を濡らした。

「だからこそ、危険なんです。肉欲に溺れるより、ずっとたちが悪い」あなたは柄を掴んだ私の手をそっと外し、坂を下り始めた。

「何なんですか、それ?」私は声を荒らげていた。

 あなたはしばらく坂を下ってから、足を止めた。私に向き直ると、いつもの穏やかな表情で言った。

「今度は、志津と竹内さんも一緒に、飲みに行きましょう。誘われていたのに、断ってばかりでしたからね」

「ずるいです……!」

 私は小さくなっていくあなたの傘を睨みつけた。行き場のない思いで、鼻の奥がつんと痛み、喉元がきゅうっと締め付けられた。傘から絶え間なく垂れる水滴が、今日のために買った白いワンピースを濡らし、体の熱を奪っていった。

 その日を境に、あなたと私のあいだに流れていた親密な空気は消滅してしまった。あなたの私への接し方は、慇懃無礼と言えるほど形式的になり、視線がぶつかることもなくなった。

 どん底に突き落とされた私の世界は、モノクロに戻ったようにどんよりと流れていった。以前にも増して契約数を増やし、生き生きと業務をこなすあなたを見ると、自分の自惚れを笑うしかなかった。