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連鎖 3-(1)

「橘さん、聞きたいことがあるから部室まで来てくれる?」

 夏休みの練習後、凪が校門を出て、友人たちと別れて1人になったときを見計らったかのように、トランペットの2年生である東に呼び止められた。

 嫌な予感が凪の全身を貫き、やかましい蝉の声も、遠くから聞こえる野球部の掛け声も遠のいていった。心臓はいつもの10倍のスピードで打ち始めた。

 凪は、荷馬車で運ばれていく小牛の心境とはこんなものかと思いながら、東の白シャツの背中についていった。東について部室に入ると、トランペット2年の桐原、太田一派の3人が待ち構えていた。2人が入ると、部室の廊下側の入口も、音楽室とつながるドアもぴしゃりと閉ざされ、部室は外部と遮断された。部室の壁に掛けられた扇風機の音が、やけに大きく聞こえた。

 蒼白な顔をした凪は、ロッカーを背に立たされ、5人が対峙するように立ちはだかった。

「橘さんに聞きたいんだけど」

 腕組みをした桐原が怒気を含んだ声で切り出した。凪は毅然としていたいのに、この雰囲気だけで泣きそうになっている自分が情けなかった。

「私達が練習に行かなかったとき、どうして謝りにこなかったの?」

 腑に落ちない顔の凪を前に、桐原は苛立ちを露わにした。

「ああいう状況になったら、橘さんが私達のところに謝りにきて、部活にきてくださいって頼むのが普通でしょ! なのに、謝りにくるどころか、第1を吹いてるって聞いて信じられなかった! よくあんなことできるね」

「私は練習のときだけ、第1を吹いてくれないかと先生に言われただけで……」

 凪は蚊の鳴くような声で答えた。確かに自分は軽率だったかもしれない。だが、勝手に練習に来なくなったのに、こんな言い方をされるのは心外だった。振り回されているのは、こっちだと叫びたかった。

「言い訳じゃなくて、謝るのが先だろ! 先生に頼まれても先輩の気持ちを考えたら普通断るだろ。それがわかんないから、先輩に嫌われるんだよ!」

 太田が、髪に結んだレンガ色のリボンを揺らしながら、野太い声を轟かせた。部員でもないのに、大きなお世話だと思ったが、早く解放されたい凪は「すみません」と深く頭を下げた。

 東がやや栗色がかった前髪をかき上げながら言った。

「それからさ、ガイジンとべたべたするのやめてほしいんだよね。ガイジンに私達の悪口言ったんでしょ? そういうことしたら、ますます私達と橘さんの距離が開いちゃうんだよ」

「私は先生とベタベタなんかしてませんし、先輩の悪口を言ったことなんか、一度もありません」凪は東をきっと見返して言った。

「じゃあ、何で居残ってガイジンと一緒にいるんだよ! 好きだから、一緒にいたいんだろ?」太田が怒号を轟かせた。

「私はトランペットが好きで、早く先輩方のように上手になりたいだけです! 先輩方の足を引っ張らないようになりたいんです。先生と2人でいたいとか、そういう気持ちは一切ありません! それだけは、わかってください!」

 凪は勘違いされた誤解だけは解きたい一心で、悲鳴のような声を上げて訴えた。

「だったら、もうガイジンが何を言っても、私達のことを考えて行動してくれない? 第1を吹けって言われても、まだ全然無理なんだから辞退するのが普通でしょ。それから、ここにいる太田さんとか、他の人もガイジンと話したいんだから……」


 桐原が粘っこい口調で警告しているとき、廊下側の部室のドアが開いた。

「何をしてるんだ?」

 振り返ると、香川が威圧感を漂わせて立っていた。

「吹奏楽部員でない者は、すぐに出て行け」

 香川は太田たちをじろりと睨み、有無を言わさぬ口調で言った。太田一派が、バツが悪そうに退散すると、香川は桐原と東に厳しい視線を向けた。

「後輩に何か言うのに、関係のない者を連れてこなければならないのか? 後輩1人を5人でつるし上げて、恥ずかしくないのか?」

「私たちも先輩から同じことをされてきたし、他の2年生も同じようなことをしてるのに、どうして私たちだけに言うんですか?」

 桐原が、香川を射殺すように睨みつけながら言った。

「今度、後輩に何か言うときは、必ず私を立ち会わせろ。こんな卑怯なやり方は二度と許さない」

 香川の威厳のあるバリトンが部室に響きわたった。気圧された2人は、憮然とした顔で、廊下側のドアをばたんと閉めて出ていった。2人が、怒りでどすどすと床を踏み鳴らして歩く音が遠ざかっていった。


 香川は涙目で俯く凪の左肩に手をかけ、「大丈夫か?」と気遣わしげに尋ねた。凪は小さく頷いた。助けられた感謝よりも、惨めさが全身を貫いた。一刻も早く、彼の前から消えたかった。凪は「帰ります」とか細い声で言った。

 送っていこうかと尋ねる彼に首を振ると、彼は凪の一人になりたい気持ちを察したのか、「気をつけて帰れよ。何かあったら、遠慮しないで相談しろよ」と言い残して音楽室に消えた。

 凪は部室にへたりこんだ。締められたショックも大きかったが、香川に惨めな姿を見られたのも恥ずかしかった。自分はトランペットが好きで、上手になりたくて頑張ってきただけなのに、なぜこんな目に遭わなくてはならないのか!


 初めて部活に出るのが怖くなった。これからも学校で太田一派と顔を合わせることを思うと、夏休みが明け、今まで以上に神経をすり減らす日々が始まるのも恐ろしかった。帰り道、太田たちが待ち伏せしているのではと思うと、部室を出るのも足が竦んだ。凪は床に体育座りをし、膝に顔を埋めた。