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連鎖 4-(1)

 いつの間にか頬をかすめる風が暖かくなっていた。桜のつぼみも柔らかくなり始めた。グラウンドから、新メンバーで臨む春の大会に向けて練習する運動部の掛け声、指示を出す顧問の声が響き、風に乗って音楽室まで流れてきた。

 3月も終わりに近づき、吹奏楽部では、新入生歓迎会で演奏する行進曲の練習が佳境に入っていた。香川は、春休み中は部活を休みにする伝統を無視し、午後数時間の練習を実施していた。

 昨日の合奏では、香川は何時になく気合が入っていて、注意すべき点は、し尽くしたように見えた。凪は、今日あたり、彼の満足そうな顔が見られるのではないかと期待していた。


「ねえ、今日の新聞に先生の異動出てたよね。ガイジン、S中に転任するらしいよ」

「S中吹奏楽部って、コンクールで金賞常連だったけど、ここ数年低迷してたから、心機一転で新しい顧問を望んだのかな。あそこの校長が、ガイジンの能力の噂を聞いて、ラブコール送ってたのかもね。ガイジン、やりがいあるじゃん」

「でも、松山先生も、よく手放したよね。苦労して、引っ張ってきたって噂だし」

「まあ、新学期から松山先生が復帰するみたいだし、これで元通りだね! 平和が戻ってくるぞー!」

 凪は歓声を上げる先輩の声が、すっと遠のいていく感覚に襲われた。やかましい楽器の音も、グラウンドから聞こえる野球部やサッカー部の掛け声も、自分とは別世界の出来事のように耳をかすめていった。


 黒いスーツ姿で第2音楽室に入ってきた香川は、部室や廊下に溜まっている部員を席に着かせた。既に情報が伝わっているので、部員は張り詰めた空気のなかで彼が話し出すのを待った。

 凪は魂を抜かれたような顔で座っていた。辛くて彼の顔を見られず、痺れた頭は、彼が何を話したかも記憶できなかった。

 だが、あの数分だけは一生忘れないだろう。

 しんと静まり帰るなか、彼はグランドピアノの大屋根と鍵盤蓋を静かに開けた。部員は何が始まるのかと息を詰めて見守っていた。彼が弾くと確信した凪は、「見果てぬ夢」だけはやめてと胸の中で叫んだ。あの曲は、彼が自分にくれた応援歌として胸にしまっておきたかった。


 彼は椅子に掛け、目を閉じて集中した後、長い指を鍵盤に乗せた。抑制した序奏が響き、胸を引き裂くような切ない旋律が続いた。

ショパン ノクターン 第20番遺作。


 歌うように流れる感傷的な旋律、計算し尽くされた緩急と間の取り方で、彼は部員を曲の世界に誘った。ほのかに差し込む春の陽は、天上から香川に降り注ぐ光に映った。悲しいほどに美しかった……。

 凪には、香川がやぶれた夢への葬送曲レクイエムを奏でているように見えた。

 弾き終えた彼は静かに大屋根と鍵盤蓋を閉め、何も言わずに第2音楽室を出て行った。彼の姿が消え、靴音が遠ざかっても、残していったオーラが室内をたゆたっていた。

「すごかったね。あれ、何て曲? 私、ショパンの『別れの曲』好きだから、あれだったら泣いたかも」

「ガイジン、やるじゃん。圧倒されちゃった」

 呆然としていた凪は、興奮冷めやらない部員の声で我に帰った。頭のなかで何かが弾け、凪は音楽室を飛び出し、夢中で香川を追った。

「香川先生……!」

 階段の上から呼び止めた凪に、踊り場に差し掛かっていた彼が振り返った。凪は夢中で駆け下りた。伝えたいことはたくさんあるはずだが、頭が真っ白になってしまい、何を言えばいいかわからなかった。だが、息を整え、一番大切なことだけはしっかり伝えた。

「『見果てぬ夢』、忘れません。ありがとうございました……」

 香川は頷き、あの日のように凪の左肩に手を置くと、「頑張れよ」と力強く言った。言葉に出さなくても彼が期待することはわかった。凪は去っていく黒い背中を見つめながら涙を堪えた。


 凪は自分のなかで彼がいい男の基準になる予感がした。彼以上の男性に巡り合えなければ、自分は心から好きになれないかもしれないと思った……。