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タワマンママたちと生涯の友になった話①タワマンに住むまで

げ‐せわ【下世話】

——世間で人々がよく口にすることば。俗にいうことば。ことわざやたとえ、物の道理などについていう。
(「コトバンク」より)

「親友と呼べる人は何人いますか?」
そんな問いがあったのなら間違いなくそこに入れる3人がいる、

彼女らは私が30代半ばにして知り合った仲間。
他の親友たちはというと、ふてくされてばかりの分別のつかない時分に出会った人たち。
大人になるということは、良いこともあるのだけど、相手がどんなものに属してるのか、どんな価値観をしているのか、思想、育ち、そんなことを気にしつつ相手のパーソナルスペースにはズカズカと入らないよう配慮する。

つまり、どんなに気が合っても大人になってから親友と呼び合う仲になるのは探り探りでちょっと時間がかかる。
私が中年になり出会った3人の親友は、先に述べたパーソナルな部分は皆バラバラでむしろ真逆。
職業も育ちも思想も年齢も、ふとした時に口ずさむ何かも全てが全くもって違うのである。

では何故、私含む4人組がこんなにも深い絆で結ばれるようになったのか。
唯一の共通点は皆同じ学年の子供がいる。
それが始まり。

子が産まれ私たち夫婦は思い切ってマンションを購入しようと考えた。
それまでは墨田区東向島五丁目、終戦まで「玉の井」と呼ばれた政府非公認の私娼窟街があったそれは情緒あるエリアに住んでいた。
といっても戦後、そこは住宅地となったので近所に女郎屋があって遊女がウロウロしていたわけではない。
というか赤線廃止で私娼窟自体とうにないが。

夫はこの地で子育てをするのを嫌がった。
所謂ヤンキーみたいな子たちが多かったからだ。
私は二十歳で浅草住み、その後押上に長く居てこの土地が好きだったし第二の故郷だと思っていて当然この地で子育てすると思っていた。
意見は食い違うものの私たちは物件探し。

そもそも夫はフリーランスで都心部にある放送局などに日々あちこちと仕事に行くので、もう少し都心に近いほうがいい、それは仕方がないと思った。

そんな時、豊洲の先に東雲という街があることを知った。
運河沿いにタワーマンションが立ち並んでいて近未来の世界にタイムスリップしたような光景。
そこのひとつのマンションのロビーに入ったとき私は驚愕する。

マウブルの床に赤い絨毯が敷いており、ブラウンを基調としたソファやテーブルが置かれるそこはまさしく昭和だった。
というか、私がふと思ったのは「翁」。
そのソファに、もうこの世にはいない翁が座って寛いでいる姿が見えた。
翁という人物にインスパイアされた空間なのでは?と思うくらいそこは翁だった。

周りには着物のご婦人が立ちながら談笑し、禿げ上がった頭の老紳士がブランデーを飲んでいたり、外国人のビジネスマンが商談をしていたり、そしてバトラーが翁に面倒な何かを持ってくる。その隣に私はひっそりと腰掛けていてバトラーに申し訳なさそうな顔をしている。
そんな風景を確かに見た。

絶対、絶対このマンションに住もう。
人生で一番高い買い物にしては決めてはそれだけ。
そこが縦長なのか横長なのか立方体なのか円柱なのかはたまた円錐なのかなんてなんとも考えなかった。
だって翁がいるんだもん。

夫もここの治安の良さに納得し、そのマンションにだけ絞って売りに出ている物件を探して吟味して引越し。
無職のように見える私だが、フリーランスで物書きをしている夫に雇われており経理業務をしていた。
近隣の保育園に申し込むも待機、まぁそうだろう。
これだけ子供が多い街なのだから仕方ない。

その数ヶ月後、江東区から一本の電話が。

続く


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