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渋谷という街 親友の死

今日、小学生の子供と渋谷に行った。

神奈川で育った私は渋谷とは憧れの東京、都会の象徴だった。

そしてその頃ドハマりしていたオザケン、こと小沢健二氏は「渋谷系」と呼ばれていた。

中学生になり、家庭の事情で私は兄とふたりだけで生活をしていた。
13歳やそこらの年齢で、監視する大人が居なかったのである。

私は独断で渋谷や原宿にひとり繰り出した。
月に数回、愛人宅から父が生活費を多めに置いていくのでお金はあった。

お笑いが好きだったので吉本の「渋谷公園通り劇場」に度々行き、そこで前座のようなポジションのバンドに魅了され、彼らを見にライブハウス「原宿ルイード」にも通った。

PARCOはパート1とパート3に分かれていて、1は高い服屋、3は奇抜な若い子向けの服屋が入っていた。
1の角にはガラス張りのmiumiuがあったのだけど、建物自体すっかり変わっていて、そこはエレベーターとamiparisになっていた。向かいにはトムブラウン。
PARCOの交差点を渡ると、今や戦時中の人民服並みに皆が着ているモンクレールの路面店。
その真上には「カフェあいうえお」というクラシックな喫茶があった。

道を歩いていたら、ああそうだ、ここはあれだ。

中2の時仲良くなった親友Nちゃん。
彼女とオザケンを気が狂ったように追っかけた。
これは大人になってからだけど、渋谷公会堂でオザケンのコンサート。
まだ時間があるね、あ、そうだ近くに良いカフェがあるよ、と彼女が言い。半地下にあるカフェでお茶をした。

ここだったなぁ。
今日見たら青山にあったジャズクラブ「ボディアンドソウル」になっていた。

彼女は複雑な家庭環境にいる私を常に気にかけ、見守ってくれた。
親が居ないので朝が弱い私は起きれない、なので毎日家にモーニングコールをしてくれた。
家電が鳴って起きる毎日。
「起きたよ」「じゃあね」それで電話を切る。

それでも起きれなくてテストに行けなかった私は悔しくて泣いた。すると彼女も泣いた。

優しくて聡明だった。
ザ・文系で、闇堕ちしかけている私を常に諭してくれた。

中学を出て、彼女は当然のようにトップ校に進学。
私は相変わらず渋谷や原宿に入り浸り受験勉強など一切していない。
でも何故かそのトップ校の次にあたる高校に進学できた。

その後彼女は南青山の大学へ。
私はファッションの会社に就職。

2人とも青山だったので、夜、いまミヤシタパークあたりにあった「スシカフェ」というLAかどこかで寿司屋をやっていたという大将が営む小さなカウンターの店でよく話をした。

恋人のこと、友達のこと、学校のこと、仕事のこと。
そんな中でも彼女は常に私を気遣い
「夜は寝れてる?お母さんは元気?」と。

その後彼女は日本橋でOLとなり、私はファッションから芸者になったりと色々なんだけど、会うのはたいてい渋谷だった。

「私はとことんアウトローの道をいくよ、Nちゃんはこのまま品行方正の道をいってね、真逆だけどずっと仲良くしようね」

などと冗談とも本気ともとれるようなことを私はいつも言った。

彼女は結婚。
東京にマイホームを構えたが、ご主人の転勤で九州に行くことに。
寂しかったけどLINEもあるし2人の実家はこっち。うん、大丈夫。

のち、私も結婚して同じ時期に妊娠、同学年の子を産んだ。

彼女が帰ってきたらこっちで会うし、私たちが九州に遊びに行ったこともあった。
子供同士も会う頻度は少ないものの、特別なお友達だと思っていたようだ。

数年後、彼女は2人目を妊娠、皆喜んでいた。

しかし、妊娠中、癌であることがわかる。
癌を摘出するにあたり、先に子を産まないといけなかった。
帝王切開で早い時期に出産、そしてさあ摘出手術、となった時、36歳の彼女の身体にそれは別の箇所にも転移していた。

手術、そして闘病の日々。

何故、こんなにも品行方正で聡明な彼女がこんな目に合わなければならないのか。
私がなればよかった。
そしてひたすら祈るしかなかった。

すべてを取り除き、彼女は退院した。

そしてこっちに来て、実家に下の子を預けて私たちは豊洲のキッザニアに行った。
ママ友下世話クラブのリーダーTにはそのことを話していて「絶対に送るから」いいよいいよ言ってるのに高級ドイツ車で私たちをららぽーとまで送ってくれた。
「だって◯◯(私)を助けてくれた親友でしょ、当たり前じゃない!」Tはそう言う。

その日は住むマンションのゲストルームに2人は泊まって翌日夫の運転する車で彼女たちを実家に送り届けた。

そこでバイバイをした。

その日が彼女を見た最後だった。

また癌が転移して闘病の日々。

一昨年の春、彼女からLINEがきたと思ったら、それを打ったのは彼女の夫で「Nちゃんが旅立ちました」

彼女がいたから私は人生を踏み外さなかった

感謝してもしきれない。

彼女は自身の闘病中でも
「さっちゃん、夜は寝れてる?お母さんは元気にしてる?」
と常に気にかけてくれた。

渋谷という街はなんだかゴミゴミしていて若者が多くて、すっかりおばさんの私にはついていけない、とかなんとか言って避けていた。

違う、彼女との思い出がありすぎて行けなかったのだ。

スクランブル交差点のロクシタンカフェができたばかりの時、2人で行った。
だから駅に着くなりそれが目に入ってしまうので、私はいけなかった。

バカな言い訳はせず、これからこの街と向き合う覚悟を今日もった。

最低でも月に一度はいくよ。
そうだな、月命日に行くのもいいかもね。

Nちゃん、あなたのおかげで私は今日生きています。

どうもありがとう。

Tもすごく会いたがっているからまた一緒にお墓に行くね。

いつも毅然としたあなたを目指して。

終わり









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