見出し画像

追悼 杉下茂、北別府学

noteでは、初めての投稿となります、これからもご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

皆様既にご存じの通り、6月16日に杉下茂氏、北別府学氏がお亡くなりになりました。

特に現役を間近で観てきた北別府氏の死去における衝撃が大きくて、コメントを打つ状況にはなれませんでした。今でも信じられません。
しかし、亡くなられたからには、彼らの功績をたたえる、伝えることが宿命と感じ、今日からまたキーを打ち続けていきます。

先ずは杉下茂氏。
1954年の熱投ぶりは、数多の有識者が語られてますので割愛し、おいらは、金やんこと、金田正一投手とのマッチアップについて呟きます。

この2大投手の先発での対戦は12回あり、
杉下から見れば、 ●●○○○○○○○●●○
金田から見れば、 ○○●●●●●●●○○●
ご覧の通り、全ての試合で勝敗が付いており、文字通り、白黒が付くまで投げ合いました。

8度目の対戦となった1955/5/10で、杉下が金田との投げ合いでノーヒット・ノーランを達成すると、10度目の対戦となった1957/8/21で、今度は金田が杉下との投げ合いで完全試合を達成。
金田は生前、「ワシが認める最高の投手はスギさん(杉下)だ」と述べられ、一方の杉下も、金田氏が死去した際「力が抜けちゃったよ。お互い投げすぎで腰は悪くなったが、あいつは昔から食事に気をつけて、内臓は丈夫だと思っていたからね」と盟友の死を惜しんでおりました。

こんな投手戦、現在のプロ野球にありますかね
残念ながらないすね!
もしも今、この試合が再現できるなら、1-0試合が観られる可能性が高そうですし、5万払ってでも観に行きたいです。

続いては北別府学氏。
ファミスタの登録名を借り「きたへふさん」と打ち込んでました。
通算213勝141敗、勝率.602、2桁勝利13回、カープ黄金時代の大エースでありました。

北別府のMAXは、やっぱ1986年かな。この年のセ・リーグは、8月終了の時点でジャイアンツが首位、カープは2ゲーム差で追っかけてましたが、以降のカープは21勝8敗の快進撃で逆転優勝を果たしました、その原動力となったのが、その期間7勝無敗の北別府でした、しかも、4試合が完封勝利。左右の揺さぶりで、バットの芯に当てさせない投球術は、見事の一言に尽きました。
通算における無四死球試合が歴代9位となる36と制球力が抜群で、バッテリーを組んでいた達川光男氏は、北別府氏を「ボールの縫い目で勝負できるピッチャー」と表してました。実に素晴らしい玄人用語です。

北別府学氏の生涯成績はこちらから

一方で、日本シリーズでは0勝5敗と勝ちに恵まれませんでした。
印象に残ってるのは1991年日本シリーズ。第3戦で北別府は秋山の一発のみ、0-1で負けたもののいい投球だったので、第7戦で仕返しを、と思いきや、球威が勝った佐々岡を起用。しかし、それが裏目と出て佐々岡は5回途中でKOを食らい、3番手で登板した北別府も、ライオンズ打線の勢いを止めることが出来ず、カープは大魚を逃しました。北別府が第7戦の頭で起用しておけば、と当時の私はそう感じました。

他に印象が残る試合を記録の面から観たのですが、良かれ悪しかれ、勝ち続けたので、徳逸なものはありませんでした。
マッチアップが最多19回の一人である江川卓投手(もう一人は尾花高夫)との対戦成績は、申し訳ないすけど、ジャイアンツに分が良かったのです。
北別府から見れば、 ●●○●●●-○----●●--●○-

ご覧の通り、3勝8敗と大きく負け越しました(一方、江川は11勝4敗)。しかし、最後の勝利となった1986年9月1日の試合では巨人打線を2安打に抑える完封勝利を挙げ、これがその先の快進撃に繋がりました。
1989年以降は右肘痛に悩まれましたが、今みたいに、それが気づいた時点で即手術(水抜きしてたとコメントしてたので、遊離軟骨除去かな)をしていれば、もう少し勝てたかもしれません。
成人T細胞白血病と5年間、戦い続けられた体力、精神力は、凡人には到底敵いません。

杉下さん、きたへふさん、我々野球ファンは、グラウンド、プロ野球記録を通して、大いに楽しませてもらいました。

偉大なる功績を残された、杉下茂氏、北別府学氏に対し、心からご冥福をお祈り申し上げます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?