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茶会とミサ

茶の湯の作法はカソリックのミサにそっくりだ。

この話を最初に私にしてくれたのは、近代ジャーナリズムの泰斗であった故・村上直之先生だった。
先生はクリスチャンではなかったが、幼い頃に一度は洗礼を受け、子どもの頃は教会の讃美歌隊にも入っていたとおっしゃっていた。

ただ、この茶とミサの話を人にすると、たいてい相手は怪訝な表情を浮かべる。

のちに上智大学教授などをつとめた英国人ピーター・ミルワード氏は、イエズス会の宣教師として戦後間もない1954年に初来日した。
そして、茶会を経験したときに、それがミサと似ていることに気がついた。

当初、この仮説は、日本のキリスト教史を専門とする研究者諸氏からあっさり一蹴された。要するに、証拠になる資料がないことには話にならないという。(『お茶とミサ』ピーター・ミルワード)

だが、氏は茶会の歴史を丹念に調べ、英国の文化であるアフタヌーンティーの習慣と日本の茶会が、ともに「最後の晩餐」に由来するカソリックのミサと通じ合うことを発見する。

利休が求めた簡素さと、フランシスコ会が求めた清貧とを重ねる氏の見立ては、あながち突飛な発想とも思えない。

そして、武者小路千家の家元後嗣である千宗屋氏も、著書『茶味空間。』のなかで「茶とキリスト教」と題する一文を綴っている。

茶の湯とキリスト教にはいくつか共通点が指摘されています。たとえば、一つの茶碗を数人で回し飲みする濃茶の作法は、キリスト教のミサにおける聖体拝領としての葡萄酒の分かち合いに通じると。単なる飲食を超え、自然の恵みや神の恩恵に感謝する祈りを込めた儀式性が感じられます。また茶巾で茶碗を清めるしぐさは、司祭がカリス(聖杯)をぬぐう所作に似ていると言われます。そのほか、路地のつくばいが洗礼盤のもじりではないか、などという真偽のほどは疑われる説も存在します。(『茶味空間。』千宗屋)


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