夢と理想と志


はじめに

仕事が順調で15件くらい同時進行していて、気づいたら2月が終わってた。

期間は長かったが100ページものの漫画を2冊作っていて、山場を越え、もう少しで完成なので終わりまでしっかりチェックして納めたい。

3月の上旬の中学生の講演会のことをいつも思っている。
日が近づいているのに、仕事に追われて準備が出来ておらず、色々なアイデアが浮かんでは消えて、まとまっていない。
昔友達の結婚式のスピーチを頼まれたのに、当日、土壇場になっても何も考えておらず、ロクなことを話せなかったことを思い出す。
それだけは申し訳ないので、仕事はそろそろにして、講演会に向き合う時間を作ろうと考えている。

志について

何を話すべきかは大体まとまってきている。

「志」がテーマの講演会なので、やはり志を基軸にして話をしたい。

「志」について調べてみると、これまた面白いので、色々考えてしまう。

「志」と「夢」の違いはなんだろう?と考えている。
ネットを検索すればいくつか出てくる。
ある偉い人は

夢と志は違います。 夢は漠然とした個人の願望であり、志は個々人の願望を超えて多くの人々の夢を叶えようとする気概です。 夢はこころよい願望だが、志は厳しい未来への挑戦です。

と述べていたり

とある会社のコンサルの人は

夢が個人の願望、将来の一 時点を指すのに対して、志は、他や世の中のために、今の自分から将来に渡って貫くものです。

と述べている。

上記のような、膨らんだ話の前に、基本として、志とは=心指しであり辞書では

「心に決めたこと」
「心がある目的に向かって動く」

と書かれている。
面白いのは、もう一つ意味があり

謝意や好意などを表すために贈る金品

にも「志」が使われていること。

何故なのかを調べてみると
志は「気持ち」の向かう方向のことを表すからみたいだ。

「志」は理性や理屈とは正反対のもので、感謝の気持ちを表す意味もあるように「心」の在り方を表しているようだ。

僕もいつも「魂」や「心」について話すことがある。

魂や心は純粋であり、人は生まれるときにやりたいことや、やるべきことを持っている。心残りを持って生まれ、それを解消するために生きていると考えている。

前述の立派な人たちの言う「志」の意味には「利他」の考えがある。

「志」は「夢」のような「利己」的なものとは違うんだ、という考えは、カッコいいなとは思う。

けれども、僕としてはそんな立派である必要はないとも思っている。

夢と理想の違い

混同されがちだが、厳密には、夢と理想と志を待つという言葉は、僕の感覚では違うように思う。

調べてみると、まず「夢」という言葉は、昭和以降に経済成長とともに、個人の自己実現について重視されるようになってから使われ始めた言葉みたいだ。

昭和より前には「理想を叶える」とか「志を持つ」と表現されていたのだろう。

次に、理想について考えてみる。
以前このnoteでも書いたが、理想とは、イデア(idea)と海外では呼ばており、プラトンの提唱したイデア論に基づいていると考えられる。

イデア論とは、この世界は不完全であり「イデア」という、完全で本質的な真実の世界=理想の世界に似せて表現された世界に過ぎないんだよ
という学説。

「理想」とは、本来もっと高尚なものであり、永遠に辿り着けない桃源郷でありながらも、人が持ち続けるもの。
単に、容易に願い、叶う「夢」とは異なるもの。

理想とは、決して辿り着けないが確かにある終着点、到達点であって

夢とは、叶い、辿り着けるものであり、終着点、到達点ではなく、将来の目的地という感覚だ。

この、夢と理想の違いは、イデア論の説明でよく使われる
「丸の話」を聴くとよく分かる。

人は完璧な新円(理想、イデア)を想うことはできるが、実際に鉛筆で新円を描こうとしても、顕微鏡で見るとガタガタしていたり、歪んでいたりする。

円(夢)は描けるが、新円(理想)は描くものではなく、想うものであることが良くわかる話だ。

だから、夢と理想は同じようで全然違うものであると分かる。

志とはなんだろう

それでは、志とはなんだろうか。
「志」と「夢」と「理想」は混同されるが、僕としては、やはり同じものではないという考えだ。

そもそも、基本の意味の通り、志は「心」の指し示す「指針」「在り方」そのものであって、到達できる夢、到達できないが存在する理想、と同じではない。

では「志を持つ」という言葉はどうだろうか。
「志を持つ」ということは、心の向かう方向が分かっていて、その方向に行くと決めることだ。
つまり「志を持つ」は、辿り着きたい目的地(目標、夢、理想)がセットになっていることになる。

「志を持っている」ならば、すでに目的地も分かっているということだ。

しかし、良く言えばそうかもしれないが、現実的に考えると、志を持つとき、必ずしも目的地があるかと言うと、そうではないとも思う。

例えば、旅行に行ってリフレッシュしたいと心では思っていても、目的地が決まっていない、分からない、なんてことはよくある話。

ただ「なんとなぁくこっち行きたい、あっち行きたいと決断していて、心では分かっているんだ」と志を持っていると、段々と目的地が分かってきたりするものだ。

だから「志を持つ」にも、目的地がおぼろげで決まっていない場合と、明確に決まっている場合があるようだ。

では、目的地のない「志」は志と言えないのではないのか?

いや、そうではないと思う。
あくまで「志」とは心の在り方、心の向かう方向を決めること、であるから目的地が決まっていないとダメなんてことはない。

要は方向が定まっていれば良いのだ。
志は、心の在り方なのだから、心が何かに向き始めたなら、それはもう「志を持っている」と言える。

だから目標や夢や理想が、明確でも「志を持つ」といえるが

目的地がおぼろげで、先が見えなくても「志を持つ」ことはできるといえる。

志とは、迷っていようが、迷っていまいが、何かに心が向ったなら、もう「志」なのだ。
志は「心指す」でありながら「心差す」でもある。
志は、心に決めたことを差して携えるものでもある。

それは武士が、目的がなくても刀を脇に差しているのと同じように。

自分の場合

僕自身、起業家になったのは、俗に言う他人の為だとか、目的地の決まった明確な「志」があったのかと言えば嘘になる。

人生に迷い、大切な青春をふらふらと過ごした。
このままではいけないと、心の赴くまま大学のベンチャー企業のドアを叩いた。

世のため、人のために起業家を志したから行動したのではない、思えばこの時に「このままではいけない」と心に想ったからだ。

カッコ悪いが、僕の場合、小さい頃から夢があって、大きな志があったと言うわけではないのだ。

心が向いたのは「このままではいけない気がする」という小さな想い。
あえて、志を持ったとするなら、この時かもしれない。

僕の人生はそこから明らかに大きく変わった。
たくさんの人と出逢ったり、楽しんだり、喜んだり、思い悩んだり、失ったり、苦しんだりしたけれど、その一つ一つが今の自分に辿り着くために必要だったと、振り返るとそう思っていて

いろいろなことを体験して、経験して、気付いたらこの道に進んでいた。

何度も言うようだが、偉い人が言う、世のため、人のために、大きな志を持っていたわけではない。

そんな僕だけど、お金を稼げるようになって、社長になって、250人の前で講演会なんてさせてもらえるようになって、何千、何万人もの人の手にとってもらえる仕事ができるようになった。

向かう先の見えなかった未来が少しずつ見えるようになった。

失礼かもしれないが、明確でカッコつけな「志」なんて、本当はなくて良いと思っている。

自分の心や、魂が向かう方向に、足を向けるだけで良い。

立派な志を立てるよりも、大切なことは自分の心に対する「素直さ」なんじゃないかと思っている。

本当は何がやりたいの?
本当にこのままでいいの?
本当はどうなりたいの?

そうやって本当の自分自身と向き合って、話し合って、行きたい方向に足を向けたなら、もうそれは「志」だと思うのだ。


「本当はこうしたいんだ」と心に素直であれば、何かを決断することも、本当は踏み出す勇気もいらない。
もし、今の中学生に語ることがあるとするなら、僕には「素直さがあった」としか言えないかもしれない。

小さな想いから始める

「世のため、人のために志を」ってのは、凄いなって思うけれども、この令和や平成の世代、目的地や向かう先がわからない人の方が圧倒的に多いはず。

だから「志」がそんなに立派である必要も、目的地を決断しなければならないものでもないと考えている。

さらに言わせてもらえば、偉い人の言う

夢は個人の漠然とした願望(一通加点)で、志は社会の多くの人の夢を叶える気概

との考えも僕は疑問に思っている。


エジソンは、多くの人が実用できる電球を夢を見て

フォードは、多くの人が車に乗る夢を見て

ライト兄弟は、誰もが飛行機に乗れる夢を見て

ジョブズは、誰もがコンピュータを持てる夢を見た

揚げ足をとるみたいで申し訳ないが、漠然とした「夢」であって良いし、それが個人の願望であっても、社会の多くの人々の夢を叶えることはできるなら「志」でなければならない訳じゃない。

最初は小さな願望や、小さな個人の欲望でも、人は満たされると誰かのために何かをしたいと想うようにもなる。

「夢」があるから、志も持てるようになるんだ。
始まりは小さなもので良いと思う。

きっと偉い人たちだってみんなそうだったはず。

「お母ちゃんに楽させたい」
「お金持ちになりたい」
「モテたい」
「見返してやりたい」
「このままじゃいけない」

そんな小さな想いが、だんだんと大きな夢や志を持つことになる。

最初から大きな志を持ってた人なんて本当にいるのかな。


若い人たちに「やりたいことをやりましょう」とか「志を持ちましょう」とか言うのは良いけど、そもそも「やりたいこと」も「向かう先」も分からないんだよ。

「少年よ大志を抱け」とか偉そうに言わんといて。
こちとら女も抱けない時代なんよ。

今思えば、僕は、大学時代に、はじめて恋をして、人を抱いて、守りたいって想って、愛が分かって、家族を持つ夢をもった。

「この人と一緒に生きていきたい。幸せになりたい。」

ごめんけど、僕にはそんな夢しか、いまだに持ってない。
なんなら、やりたいことすらまだ探してる。

だから、大志を抱けとか、やりたいことをやれとか、正直言わんといて欲しい。

成功者の言う、明確な目的地のある「志を持つ」ことや「社会や利他のため」という気概は立派だし、素晴らしいと思う。

けれども、誰もがドラマチックなレールが敷かれた物語を歩んでいるわけではない。

現実は
やりたいことも分からなくて

いつも「誰かのために」と個人の夢を持つことさえ許されない

遊ぶ時代だと言われても、遊び方も知らない

情報をたくさん掴めと言われても、溢れかえって何を掴めば良いのかも分からない

そんな人が多いと思うんだ。
僕みたいに。

だから、自分の小さな欲望や小さな夢から始めたって良いと思う。

嫁さん幸せにしたいとか
育ててくれた母さん父さんに楽させてあげたいとか
小さくて良いから家に住みたいとか
モテたいとか
金持ちになりたいとか
楽したいとか

そんなことからでも物語って始まるもんだから。
「誰かのために」「社会のために」って、自分が生きて、家族守るだけで精一杯の人には難しいんだよ。


武士だって、目的なんてなかったんだよ。
「自分の土地を守るため、家族を守るため」
ただそんな、小さな想いを心に差して、刀を差したんだ。
僕はそれがカッコいいと思うんだよ。
社会のためとか、大志なんてあとからついてくる。

もっと自分の心に「素直」になることから、始めたらどうだろうか。

吐き出して、書き出して、自分の心の声を聴いたらどうだろうか。

「できる訳ない」なんて言わないでほしい。
それ「心閉ざし」だから。

もっと自分を信じて欲しいんだ。
今自分がやっていることを信じて欲しいんだ。
心の指す方に、素直に歩いていって欲しいんだ。

それだけでもう立派な「志」だと僕は思うんだ。


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