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【道元と宇宙】 18 『正法眼蔵随聞記』は偽書だ!


 『廣録』を読んだ後で、『随聞記』を読むと、
『随聞記』の言葉は、道元のものとは思えない。
どこがどうおかしいか、整理してみる。

 

① 坐禅だけでよいか?

『随聞記』は、坐禅だけでよいと言っている。
「学道の最要は坐禅これ第一なり。
大宋の人多く得道すること
みな坐禅のちからなり。
一問不通にて無才愚癡の人も
坐禅をもはらすればその禅定の功によりて
多年の久学聡明の人にも勝るゝなり。
しかあれば学人は祗管打坐して
他を管することなかれ。
仏祖の道は只坐禅なり。
他事に順ずべからず。」
(正法眼蔵随聞記、5巻)

 現代語
仏道を学ぶにあたって、一番大切なのは、坐禅だ。
多くの中国人が、坐禅の力で得道している。
問答に満足に答えられない、学力のない人でも、
坐禅をもっぱらすると、禅定のおかげで、
長年勉強を続けている聡明な人に勝るのだ。
だから、ひたすら坐禅して、他のことはしてはならない。
仏祖の道はただ坐禅である。
他のことをしてはならない。 

 

道元は『廣録』や『正法眼蔵 弁道話』で
「わが宗は禅宗にあらず」と言っている。
坐っているのは、考えるためだ。

 

② 詩歌の否定

 『廣録』はいたるところに、
対句や絶句が並べられている。
七言が多いが、六言だったり、五言だったり、
それらが入り混じっていることもある。
とても軽妙で、詩心がある。

 ひとつ紹介する。
鎌倉から戻った宝治二年(1248)12月8日、
釈迦が悟りを開いた仏成道日。
六七八六と文字数は変則的だが、
なぜかとってもリズミカルで、
道元が超ゴキゲンな様子が伝わってくる。

白文:
雪団打雪団打
打得寒梅雪裏開
天上明星地上木杓
年臘八先春来

 読み下し文:
雪団打(セッタンダ)雪団打。
打得(ダテ)して、寒梅(カンバイ)、
雪裏(セツリ)に開く。
天上の明星、地上の木杓(モクソウ)。
年のはに臘八(ロウハチ)、
春に先(さきだ)ちて来(きた)る。
(『廣録』上堂語(297))

 寺田透訳:
ボタ雪降る降る。降る降るボタ雪。
雪がかかって、梅の花。
空には明星、地上の柄杓。
師走八日は春より早い。

 

ところが、『随聞記』は詩歌を否定する。
詩人道元の言葉としては、絶対にアリエナイ。

「業を修し学を好まば、
只仏道を行じ、
仏法を学すべきなり。
文筆詩歌等其(そ)の詮(セン)なき事なれば
捨つべき道理なり。」
(正法眼蔵随聞記、1巻)

「近代の禅僧、頌を作り、
法語を書かんがために、
文筆等をこのむ。
これ便ち非なり。」
(正法眼蔵随聞記、2巻)

 
それぞれ、現代訳を試みる。
「仏道修行し、学を好むのなら、
ただ仏道を行じ、仏法を学びなさい。
文筆や詩歌は、意味がないので、
やめなさい。」
「近代の僧は、詩を作り、
法語を書くために
文筆を好むが、それは良くないことだ。」

 もちろん、『随聞記』に詩歌は皆無である。

 

 ③ 年中行事や季節変動、道元の感情がない

 語録というのは、時系列的に編集されていて、
季節の推移、毎年の行事や記念日に合わせた
上堂が記録されている。

 

『廣録』は、
仏入涅槃日、釈迦誕生(浴仏)、成道日、
如浄や明全の命日、
新年、結夏(夏安居始まり)、開夏(夏安居の終わり)、
中秋、開炉、冬至、
人事異動(着任・離任)
などなど
様々な行事や時候に合わせた
上堂をしている。

 上道語に込められた
道元の気持ちは
読む者にも伝わる。

 読み下し文:
上堂するや云う。
是、一番の寒、骨に徹するあらざらんには、
争(いか)でか、梅花の遍界に香るを得ん。
座より下る。
(廣録 上道語34)

 現代訳:
今日の寒さは骨身にこたえるが、
これがなくては、梅の花があたり一帯に
いい匂いをさせるということがどうしてあろう。
(それだけで、説法の座を降りた。)

 寒かったから、話を短くしたのだ。

 
ところが、『随聞記』には、
年中行事も季節の移ろいもない。
ダラダラと説話が並んでいるだけ。
『随聞記』を読んでも、
道元の喜怒哀楽などの感情は感じ取れない。
そもそも道元の言葉でないのだから。

 

 ④ 正法眼蔵の言葉の検討がない

 『廣録』を読んでいると、
「仏性」、「即心是仏」、「虚空」、
「光明」、「仏向上」などの
正法眼蔵の巻名となった言葉、
つまり仏法の基本概念の
検討が多く行われている。

 

たとえば『廣録』(上道語97)は、
雲門の語録を読んで、光明を語る。

 人々(ジンジン)自ら光明有ること在り。
仏殿・僧堂、更に壊(え)すること莫し。
且(しばら)く問う、人々何の処よりか来る。
光明は光明有らしめて対(たい)す、と。
(廣録・上道語97)

 

現代訳:
ひとそれぞれに光明がある。
仏殿と僧堂は壊れることがない。
そこで訊いてみるが、
人の光明はどこから来たのか。
仏殿や僧堂の光明が、
人の光明を現成させるのだ。

 

このような形で、光明について、
ああでもない、こうでもない、
ああかな、こうかなと、
道元は試行錯誤を続けて、
理解を深めようとした。

 
ところが、『随聞記』には、
正法眼蔵の基本概念を取り上げたものが少ない。
概念をあれこれと議論することがない。

どうしてみんなこんなおかしな本に
騙されるのだろうか。
ひとつは、『随聞記』に道元語録と書いている上に、
薄くて安いから。
もうひとつは、本当の語録『廣録』が
手に入らないから。

 しかし道元は、このような事態が来ることを
予想していて、
自分の真筆が識別できる仕掛けを用意していた。
そのことに僕は気がついた。

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