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チョムスキーへの難題

 不思議なことに、国際学会などで海外に出かけると、研究を進めるにあたって出会った天才たちのお墓に参ることが度重なった。予定していなかったのに、現地に到着するとお墓があることを知るのだ。

チョムスキー派言語学者の世界大会

 2013年7月にジュネーブで開催された国際言語学者会議に、僕は2本の予稿を提出した。チョムスキーの難題を解くという意気込みが認められたのか、2本ともポスター発表として採択された。ひとつは「論理的音節が駆動するデジタル言語 ー ヒトの言語の起源と機構についての仮説」で、もうひとつは、「概念・文法複合体のための免疫グロブリン分子構造の可変領域・定常領域両方の利用 ー ヒトの意識は脳室(VS)内の脳脊髄液(CSF)中の免疫ネットワーク」という途方もないタイトルだった。 

 国際言語学者会議は、世界中のチョムスキー派の言語学者が5年に一度一堂に会するもので、もちろんチョムスキーも顔を出して特別講演をした。僕はチョムスキー本人をつかまえて、デジタル言語学を進講した。聴き終わったチョムスキーは、なんと、ポスター(A3版)の余白にサインをして、記念品として僕にくれたのだった。(笑)

チョムスキーにデジタル言語学を講義しているところ

 死してなお前衛

 会場となったジュネーブ大学は、ピアジェとソシュールが在籍して活躍したところ。そうだ、ピアジェの墓参りをしようと学会事務局に場所を教えてもらって、カルヴィンをはじめとする著名人がたくさん眠る市の中心部にある墓地を教えてもらった。墓地に着いたときはすでに時間外で閉門していたのだが、そこに一人の黒人青年が立っていた。「この扉を乗り越えていけば入れる。出るときは、内側からドアは開くから」とまるで僕を待っていたかのように教えてくれた。天使だ。
 
 ピアジェの墓の位置を案内図で確かめて付近まで行ったが、わからなかった。もう一度、入り口の地図をよく見てから行くと、なんと墓碑銘もなければ、盛り土もない。まるで日本の盆栽のような苔むした石がひとつあるだけ。さすがピアジェは死してなお前衛である。

「人間は自然の一部なのだ」と言わんばかりのピアジェの墓

 学会事務局に、ピアジェのお墓に無事にたどりつけたことを報告すると、大変喜んでくれ、ピアジェの自宅住所を教えてくれた。建物には入れないが、庭には入れるという。僕は嬉しくて、学会で友達になったロシア人やイギリス人を誘ってお墓参りに三回、自宅の庭にはロシア人と二回行ったのだった。
 

ピアジェの自宅の庭。急に眠くなって奥のベンチで少し眠った。

 そして学会最終日に、プレナリー講演をサボって、会場であるジュネーブ大学の図書館を訪れたところ、「ピアジェ文庫」という部屋があった。そこには世界中で翻訳されているピアジェの著作やピアジェが編集した書籍が集められていた。僕はそこでも急に眠くなり、床の上でしばし眠り込んでしまった。


ピアジェ文庫の床に引き寄せられ、このまま眠りについた

 目がさめたとき、書棚の中にあった「言語と学習:ピアジェとチョムスキーの論争」という本が目に飛び込んできた。これは1975年にパリ郊外の修道院で開かれた、ピアジェ派とチョムスキー派の論争をまとめたもの。ピアジェはチョムスキーと対決していたのか。「これを読んでくれ。後は頼む。」とピアジェの声が聞こえたような気がした。


1975年にパリ郊外でピアジェはチョムスキーと論争した

 この後、2014年4月は南仏でイェルネ、2015年3月はプリンストンでフォン・ノイマン、2017年7月はサンクトペテルブルクでパブロフと、招かれるようにお墓に参った。2018年10月、ヴィゴツキーのお墓があるモスクワのノヴォデヴィチ墓地では、案内係の勘違いによって別の墓地に行くように言われた。そこで墓地を出ようとしたら、グーグルマップのGPSが急におかしくなって、墓地の周りをグルグル歩かされた。ヴィゴツキーが僕を引き留めようとしたのだろうか。翌日、ロシア語の達人に墓地に電話してもらったところ、やはりヴィゴツキーの墓はノヴォデヴィチ墓地とわかり、再訪した。もしかすると、天才たちは霊になった後、自分がやり残した仕事を引き継いでくれる人を探して墓に招いているのかもしれない。

 


 トップ画像は、ピアジェの自宅。全体が顔で、窓が目になっている。屋根の上には猫の姿をした瓦がある。


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