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読んだ本 『共生の大地』20240214

幡谷先生の『共生の大地』を読んでいる。すごく大切なことが沢山書かれている。この本も、何度も読み返したい本である。

懺悔が、懺悔を通して真実に出遇っていく。そこにおのずからにして出てくるものが、深い恩徳感ということです。『正像末和讃』の結讃が「如来大悲の恩徳は」という恩徳讃で結ばれて行きますが、深い悲しみにおいて深い喜びに出遇っていかれた。大いなる喜びに出遇っていかれた親鸞の生涯に満々と湛えられているものは深い恩徳感だと思います。本当にたまわりたる命を生きさせていただくということについての深い感動です。
だから、もし聞法しながらそれが恩徳感にならないならば、どこかに問題があるのだろうと思います。聞法していくことが深い恩徳感のなかに包まれているといいますか、深い恩徳感となっていくようなそういう聞法です。ただそれは、はじめからありがたいというのではございません。
曽我先生が、お話を聞く人は話が始まらないのに、はじめから「ありがたい、ありがたい」といって頭を下げているから、話はその頭の上を通りすぎてしまって、何のことか分からないことになる。はじめからありがたいというのではなくて、ありがたくなれない、あること難き命あること難しと受け取ることすらできない、そういう身を知らせていただくということのほかにないということです。そういうなかで、本当にありがたいと頭が下がる。それが恩徳感として展開するような聞法、あるいは生涯の生き方です。恩徳感に終っていくような生き方をしたいと私は思います。いずれ幕を下ろさなくてはならない訳ですが、幕を引く時にありがとうございましたと、その一言がはっきり言える生を生きていきたいというのが人間の願いでしょう。しかし、それは先にというわけにいかないんで、「今」ということです。「今のところは」としか言えないのが身の事実であるならば、幕を引くのは先ではないのです。今そういう幕を引いていかなければならないわけです。そういうことが思われます。
 これは広瀬先生から教えていただいたことで、命というもののあり方について、四つの規制の下にあると言われます。それは、一回性、単独性、無常性、有限性です。広瀬先生は、こういう言葉で命を規定されました。我々の命、人生は一回限りのもの、二度と繰り返しのきかない、やり直しのきかない厳粛な人生を生きているということです。歳を重ねてから十八歳の娘に返せなんて言ったって、愚痴にしか終わらないということです。そして、衆生として、親子・兄弟、いろんな縁をいただいて生きているかれども、生まれ死んでいくのは一人ということ。代わってあげることも、代わってもらうこともできない命を、一人ひとりが生きていかなければならないということです。そして、それは常ならざる命。念々刻々に生じては滅していく。そういう命を生きていかなくてはならない。しかもしれは、どれだけ生きたいと願っても、有限であるということを避けられないということです。今日の問題は、生きることが難しい時代から、死ぬことが難しい時代になったと言います。そういうなかで、本当に生死する身ということを問わなければならない。生死していく身ということを深く問うていかなくてはならない。だから、「ありがとうございました」ということで、今日の一日の幕が引いていけるということです。明日ではなく、人生の終わりということでなくて、今日の一日の幕を、我々は「ありがとうございました」ということで引けるか引けないか、それは一人ひとりがはっきりしなければならないことだろうと思います。

幡谷明『共生の大地』、222-223頁

ありがたいと言っても、最初からありがたいのではない。本当に有難いとはどういうことか、考えるヒントをいただく。

また広瀬先生は、命というものが四つの規制の下にあるといわれたという。
それは一回性、単独性、無常性、有限性。
これも私たちは当たり前のように思っているが、あらためて考えるとこんなことを普段は意識していないと思わされる。

なぜ私たちは、満足できず不満なのか、また不安なのか。
不満と不安の中で揺れ動くのかと言えば、命が一回性で、単独性で、無常性で、有限性だからだ。
いのちが一回限りの二度とやり直しのきかない厳粛なものであるからだ。
現代によくある、タイムリープものは、もしかしたら、その厳粛性が怖くて、その厳粛性に向き合いたくない私たちの心がつくりだしているのかもしれない。
しかし実際の人生は絶対にタイムリープは出来ない。輪廻という考え方もあるが、それは同じことを繰り返すことができるという意味ではないだろう。あくまでも、私たちが迷いを経巡っているという意味での輪廻である。何度でも繰り返せるというような甘い意味ではない。

そうかんがえるときに、幡谷先生がいうように、「生死していく身」ということを深く問わねばならない。そのことが大事になって来る。どうせ一回きりだから面白おかしく刹那的に過ごそうというのも、ひとつの考えではあるが、それこそが迷いだと仏教は教えている。


(追記)
毎日『教行信証』を読みたいと思いながら、つい忙しかったりすると、読まずに寝てしまう。それを防止するために、このnoteにひたすら音声を録音したものをアップしていこうと思う。誰も聞かなくていいのである。ただここにためておけば、誰かが将来、音声で『教行信証』を聞きたいと思った時に、役立つかもしれないし、モチベーションに繋がるからだ。

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