昨日『教行信証』を読んでいたらどうしても読めないなと思う所があった。それは以下の部分である。
信心の海には、入りがたいのであると。なぜかと言えば、仏力より発起するが故にだと。先ず心理論が分からない。普通、仏の力によるから、入りやすいのではないかと思う。
しかし、仏の力によるから入りにくいのだと。ここは他力=簡単というイメージとは逆のことを親鸞は言っているように思う。ここをどう捉えたらいいのか。ところが、先ほど、信心の海には、入り難いといっていたのに、今度は、真実の楽邦、つまり、浄土には甚だ往き易いという。それは、如来の願力があるからであると。
つまり、親鸞においては、やはり信がポイントになっていると思われる。
普通の常識で考えると違和感を覚えるのは、
①信心の海には入ることが難しい。
であるにもかかわらず
➁浄土には行き易い。それは、如来の願であるからだと。
つまり、常識的に考えたら信じられないから信心の海に入ることができない。しかし、信心の海に入りさえすれば、後は如来の力があるから入りやすいのだということなんだな。
現代語訳を見てみよう。
なるほど、やはり「みずから」大信心海に入ることが難しいのであると、〔〕書きされている。
山辺習学・赤沼智善の『『教行信証』講義』を見てみよう。
やはり山辺・赤沼においても、丁寧に解明されていた。「即ち吾等は迷妄の自力を執する心が深いから、自己の努力で獲られる信心ならば、易いことであるが、唯仏力のみに依るとなれば、これ程困難のことはない訳である。併しそれが他力であり、困難であるということが、凡夫迷妄の心境を絶した最勝真妙の金剛心たることを証明しているのである。」
それでは親鸞にとって信とはどのようなものなのだろうか。やはり信がポイントになるのだ。
新たな問い
化巻の平等覚経の引用の「もし聞見せば精進して求めよ」はどのように受け止めたらいいのだろうか。勉強していなさ過ぎて分からない。
つまり
①文字通り、仏にはこの世ではあい難い。だからもし、聞いたり見たりする機会があるのならば全力で求めよという意味。
➁ここは、あくまでも自力念仏の勧めの中でいわれていることなのか?
①、➁のどちらかなのか。それとも①、➁のどちらでもないのか?
もし、➁ならば、伝統的な簡非や誡めという見方は妥当なことになるが、①の意味があるならば、➁の見方では不十分ということになるのではないか。