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『教行信証』の基本の学習①、難しと易し 化身土文類 三経一致結釈

昨日『教行信証』を読んでいたらどうしても読めないなと思う所があった。それは以下の部分である。

三経の大綱、顕彰隠密の義有りと雖も、信心を彰して能入とす。故に経の始めに「如是」と称す。「如是」の義は則ち善く信ずる相なり。今、三経を案ずるに、皆以て金剛の真心を最要とせり。真心即ち是れ大信心なり。大信心は希有最勝・真妙清浄なり。何を以ての故に。大信心海は、甚だ以て入りがたし。仏力より発起するが故に。真実の楽邦、甚だ以て往き易し。願力に籍りて即生するが故なり。

親鸞「化身土文類」本『教行信証』、『聖典』第二版、405頁

信心の海には、入りがたいのであると。なぜかと言えば、仏力より発起するが故にだと。先ず心理論が分からない。普通、仏の力によるから、入りやすいのではないかと思う。
しかし、仏の力によるから入りにくいのだと。ここは他力=簡単というイメージとは逆のことを親鸞は言っているように思う。ここをどう捉えたらいいのか。ところが、先ほど、信心の海には、入り難いといっていたのに、今度は、真実の楽邦、つまり、浄土には甚だ往き易いという。それは、如来の願力があるからであると。
つまり、親鸞においては、やはり信がポイントになっていると思われる。

普通の常識で考えると違和感を覚えるのは、
①信心の海には入ることが難しい。
であるにもかかわらず
➁浄土には行き易い。それは、如来の願であるからだと。

つまり、常識的に考えたら信じられないから信心の海に入ることができない。しかし、信心の海に入りさえすれば、後は如来の力があるから入りやすいのだということなんだな。

現代語訳を見てみよう。

三経の大綱は、顕の義と彰隠密の義があるけれども、信心を彰かにして〔仏道に〕よく入ることである。だから『経』の始めに「如是」と称している。「如是」の義はよく信じる相である。いま三経について考えをめぐらすと、いずれもみな金剛の真心を最も要としている。真心はまさしく大信心である。大信心は希有であり、最も勝れ、真に妙であり、清浄である。なぜか。大信心海は〔みずから〕入ることがとてもできず、仏力より発起するからである。真実の安楽浄土にはとても往き易い。〔如来の〕願力に籍って即座に生まれるからである。いままさに〔『阿弥陀経』の〕一心が〔『大経』と『観経』の三心と〕同一なのか異なるのかについての義を論じようとしている。〔そこには〕当然このような意があるのである。〔ここに〕三経における一心の義について答えおわった。

『解読 教行信証』122頁

なるほど、やはり「みずから」大信心海に入ることが難しいのであると、〔〕書きされている。

山辺習学・赤沼智善の『『教行信証』講義』を見てみよう。

浄土三部経の肝要とする所は、実に他力の信心一つである。これをもって経の極意に達することができるのである。よしや其の説相には顕説と彰隠密の異りがあっても、畢竟する所は此の信心を明かすの外はない。それゆえにこれ等の経典の初めに「如是」というてある。如是ということは、善く信ずる相をいうたものである。今これによりて三経の真意を按えて見るに、何れもみな他力金剛の真心をもって最要としてある。そして此の真心は他力回向の信心にして、この信心こそ世にも稀有なる最も勝れた真実不可思議にして清浄なる仏心である。何故かと云えばこの他力の信心海に帰入することは甚だ困難であるからである。それは凡夫の力では及ばず、唯如来の他力不可思議力によりて此の信心を獲ることが出来るからである。即ち吾等は迷妄の自力を執する心が深いから、自己の努力で獲られる信心ならば、易いことであるが、唯仏力のみに依るとなれば、これ程困難のことはない訳である。併しそれが他力であり、困難であるということが、凡夫迷妄の心境を絶した最勝真妙の金剛心たることを証明しているのである。併し凡夫の迷妄に著する方面から云えば、困難であるが、一度回心すれば又甚だ容易である。即ち真実の極楽へ生まれることはいと易い。それは自力の功用を籍らず、偏に本願力に乗托して、頓悟頓証するからである。今、『大観二経』の三心と『小経』の一心との異同を述べ来ったが、それは大凡上述の如くであろうと思われる。即ち『小経』の顕説によれば、真門念仏であるが、隠彰の実義から云えば、三経全く同一の他力信心をあらわすというのである。三経の肝要は唯他力の一心であるという義は、これにて答え竟った。

山辺習学・赤沼智善『教行信証講義』一三五三ー一三五四頁

やはり山辺・赤沼においても、丁寧に解明されていた。「即ち吾等は迷妄の自力を執する心が深いから、自己の努力で獲られる信心ならば、易いことであるが、唯仏力のみに依るとなれば、これ程困難のことはない訳である。併しそれが他力であり、困難であるということが、凡夫迷妄の心境を絶した最勝真妙の金剛心たることを証明しているのである。」

それでは親鸞にとって信とはどのようなものなのだろうか。やはり信がポイントになるのだ。

新たな問い

『平等覚経』(二)にのたまはく、「この功徳あるにあらざる人は、こ
の経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有てるもの、いまし還りてこの
正法を聞く。悪と驕慢と蔽と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世の時に仏を見たてまつれるもの、楽みて世尊の教を聴聞せん。人の命希
に得べし。仏は世にましませどもはなはだ値ひがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ」と。

聖典第二版408

化巻の平等覚経の引用の「もし聞見せば精進して求めよ」はどのように受け止めたらいいのだろうか。勉強していなさ過ぎて分からない。
つまり
①文字通り、仏にはこの世ではあい難い。だからもし、聞いたり見たりする機会があるのならば全力で求めよという意味。
➁ここは、あくまでも自力念仏の勧めの中でいわれていることなのか?

①、➁のどちらかなのか。それとも①、➁のどちらでもないのか?

もし、➁ならば、伝統的な簡非や誡めという見方は妥当なことになるが、①の意味があるならば、➁の見方では不十分ということになるのではないか。

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