2024年度の目標


読書メモ 宮城顗『本願に生きる』

無三悪趣の第二は「餓鬼」(preta)です。逝くもの、逝けるもの。そこから転じて、いつも子孫の供養を待っているものというような意味が重ねられてきたそうです。要するに、自らの欲望を満たされないで苦しんでいるものです。これは決してなにもないということではありません。餓鬼ということには、食べる物も飲む物もない、文字通り「無財餓鬼」ということがありますが、同時に「有財餓鬼」ということが説かれています。有るということの中に、それも山ほどのものに取り囲まれている。
これはちょうどバブルがはじける直前でしたが、「未足」という言葉を知りました。三菱電機では、年頭、迎える年を表す言葉をいろいろ出し合って決めるそうです。そしてその言葉をひとつの旗印として、どういう商品を作れば時代状況にあって購買意欲を引き出せるかを研究する。ちょうどバブルがはじける直前、ある意味ではみんなが多財、いろんなものを買い揃えた時代ですが、そのときにこれから迎える時代は「未足」の時代だと。未足というのは、一応全部揃えてしまった。ないものは何もない。洗濯機もあるし、テレビもあるし、ガスレンジから何から欲しいものは全部揃っている。全部揃たけど何か物足りない、何か満たされない。そういう気分で暮らしていくのが、この一念のみんなの気持ちだと。
たくさんの物を持ちながら満足できない。何か欠乏感を抱えている。といって、それが直接具体的にあれが欲しい、あれが自分にはないというものは何もない。一応全部揃えている。だけど満たされていない。多財餓鬼とはまさにそういう未足の状態でしょうね。たくさんあることにおいて満たされていないのです。
『大無量寿経』では「有無同然」(真宗聖典五八頁)と説かれています。財産があるのもないのも同じ。物に苦しむということにおいては変わらない。田畑があれば田畑があることで苦しむし、田畑が無ければ田畑がないことで苦しむ。まさに餓鬼というのは、ただ欠乏しているというだけではありません。いうならば、物に苦しめられている。苦しめられ方は無有同然です。あってもなくてもです。
この餓鬼という状況、これが資本主義社会において人間の陥るところでしょう。すべてのものを利潤追求のためのものとしてしか受け入れられないし、認められない。いつも思い出します高史明さんの言葉に「現代人は山に材木を見て、木を見ない」ということを語られていましたが、まさにそういう状況ですね。貴をみてもそこにいのち、一本の木はたとえ一本であってもその世界がいのちの世界だということを象っているわけですし、しかも木というものは自分だけが生きているのではない。根において、幹において、枝葉において、いろんな生き物を養う。いろんな生き物の生きる場を与えている。そういういのちの交わり、いのちが共に生きていく、そういう具体的な姿として木ということがあります。
仏教では、木という言葉が非常に大事に使われますね。釈尊の生涯もすべて木で語られています。「無憂樹」のもとで生まれ、「菩提樹」のもとで悟り、「沙羅双樹」のもとで亡くなるというように全部木で象徴されている。そしてまた、私たちの聞法の場というものも「道場樹」という言葉で表される。木というものは、まさにいのちがいのちの交わりの中でいのちに目覚め、いのちを育んでいくのが木です。現代においては木材としてしか、つまり利益をあげるための素材としてしか見なくなっている。
安田理深先生は、「資本主義社会に在っては時間も空間も全部金だ」といつもおっしゃっていました。たとえば特急料金というのは時間を買っているわえけです。だから、何時間か遅れたら特急料金は返却されますね。時間を売ったけれど、時間を欠乏商品にしてしまったわけですから。高速道路は時間ではないのです。あれは場所を借りている。一切の時間、空間が利潤を生むための時であり、時間の場として使われている。
だから、資本主義社会にあっては、本来こういう聞法の場というのは成り立ち得ない。ある意味で聞法の場、聞法の時間というものは、おおげさに言えば資本主義社会のあり方と切り結んでいるということでもあるのでしょう。
ともかく、資本主義社会派すべてのものを利潤を生むものとして見る。ハイデガーという人は、「自然というものは、現代人においては巨大なガソリンスタンドでしかない」、そこからいかに多くのエネルギーを取り出すか、自然といっても川も山もすべて巨大なガソリンスタンドだという言い方をしています。
ある童話で、神様から何でも望みの物をやると言われた欲深い男は、どれだけ巨大な金塊といっても形に成っているものは限りがあるわけですから、それじゃあつまらん、自分の手がふれたものが全部金になる手をくれと言った。それをもらって喜び勇んで、すべてのものに手をふれていくと全部金に変わる。有頂天になっていたら、そのうちおなかが減ってきて、食べ物を食べようと思ったら金になってしまって食べられない。水を飲もうとしても水が金になってしまい飲めない。そうしてついにのたうち回って、もとへ返してくれとと言ったという童話があります。ある意味で現代人はまさにすべてを黄金に変える手を持ったと言っていいかもしれません。すべてのものを物質的価値に変えてしまった。そして、それ自身の生きた価値というものをついに手にして生きることができなくなっている。こういうあり方が現代人の、まさに餓鬼の姿ではないかと思います。
宗教的施設も全部利潤をあげる場に変えられていくわけです。この頃はホテルがやたらと結婚式用のチャペルを建てていますが、礼拝なんかしたことないでしょうね。結局、教会での結婚式を望む若い人たちを魅きつけるために教会を建てている。すさまじい商魂ですが、私たち仏教にあっても葬儀の形でそういうものに侵されているということが言えるかと思います。
餓鬼というのは、ぬくもりがあるいのちにふれられない悲惨さです。自分の欲望は満たしていったけれども、ついに温もりのあるいのちに出会えない。そこに「餓鬼」という問題がおさえられているかと思います。


宮城顗『本願に生きる』pp.17-22






今年は、中編論文を3本書く。

3回学会で発表する。

論文を100本読む。

9時に寝て、5時に起きる生活をする 出来れば4時起き

そして、読んだ本を、読んで終わりにするのではなくて、読書メモを付ける習慣を付けたい

あと運動もしたい。一日1時間は散歩をしたい。

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