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今日読んだ本 「真宗学の〈解釈と方法〉をめぐる課題」20240415

杉岡先生の講義録を読んでいたら。目から鱗の文章。教行信証の解釈について。創造的解釈というのは恣意的で、勝手気ままな解釈を許すことではないという。勝手気ままで恣意的な解釈ということではなくて「作品それ自身がもっている可能性としての多様性であるというところが大事」。これはとても身につまされる。自分の場合、まさに勝手気ままで、恣意的な解釈ではないか。一方で、教行信証をもっと、一般の方たちにも開いていかないといけないという指摘がなされる。専門家の中に教行信証を閉じ込めてはいけないと。これも身につまされる。教行信証は確かに大切だ。しかしその大切にする仕方が、権威づけることばかりだと思っている。そうではない。一般の方にも開いていくことが大事だという言葉はすごく示唆的である。

創造的というのは、恣意的で勝手気ままな解釈を許すことではありません。また、多様な解釈を主観的に是認することを意味するものでもありません。ガダマーも、『真理と方法』の第一部のなかで、音楽の演奏がさまざまな仕方で提示されることに着目しているわけですけれども、それは「作品の存在可能性、いわば自己自身を解釈して、その多種多様な側面を示す作品の存在可能性」(『真理と方法』Ⅰ一七一頁、轡田収・麻生健・三島憲一他訳、法政大学出版局、一九八六年)として了解されています。すなわち、解釈の多様性なるものは、作品それ自体に根源的に具わっている多様性を意味するものとして考えられるのだと思います。
ですから「創造的解釈」という言葉は、後ほど改めて申しますけれども、自由勝手な解釈ではなくて、作品それ自身がもっている可能性としての多様性であるというところが大事だと思います。親鸞聖人の書かれた『教行信証』の世界は、それこそ日本の京都のある地域に住んでいる研究者だけが理解するものではなく、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、世界中で理解できるということは、非常に豊かで開放性をもっている書物だと考えなくてはいけません。しかも、時代的にも、これからもっと先の科学技術が進んでいった時代においても読まれ、その時代の人々に感動を与え続ける可能性をもっている。『教行信証』はそういう書物であると考えなくてはいけないのだと思います。
特に現代では、一般書店で『教行信証』の解釈書や注釈書を買って読むことができますし、別に真宗学者でなくても、哲学者や歴史学者、さらには一般の方も、親鸞聖人の教えについてたくさん書物をかいておられます。そうした時代に、いつまでも閉鎖的に真宗学の特殊性だけを主張していては、『教行信証』がもっている開放性と言いますか、その豊かさを閉じ込めてしまうことになるのではないかというふうに思います。

杉岡孝紀「真宗学の〈解釈と方法〉をめぐる課題」(『近現代『教行信証』研究検証プロジェクト研究紀要』第3号、2020年)pp.5-6



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