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日本の伝統「うちわ」を通して、 日本文化を守り続ける京都「小丸屋」十代目女将"住井啓子さん"

人と人とのご縁から、ピンチをチャンスに変えてきた、創業1624年、心和む「うちわ」老舗の小丸屋さん十代目住井啓子さんにお話をお伺いしました。

プロフィール
出身地 京都市
活動地域 関西を中心に全国、アジア圏
経歴および活動
㈱小丸屋住井 代表取締役社長/舞扇子デザイナー
幼少より日本舞踊(坂東流)を習い、7歳で初舞台を踏む。舞踊経験を生かし舞台小道具の製作、時代考証を行う。特に舞扇子のデザインに関しては花柳界からの信頼が厚い。
2000年 舞台用小道具として深草うちわを復元し、以後毎年新作うちわ展を開催。
2004年 「京遊団扇」出版にあたり監修を務める。
深草うちわ復元以降、大学や寺院、その他講演依頼を積極的にこなし、京都の伝統文化を発信する拠点として2015年に「小丸屋サロン」をオープン。
日本国内にとどまらず、中国などの国外でも日本の伝統文化の価値を伝える講演活動で活躍中。
座右の銘 「信念不動」

職人を守るために新しいモノ作りをして活気づけていくこと

Q1.これからのビジョンを聞かせてください。
住井啓子さん(以下、住井 敬称略)
 住井家の歴史は、千年以上と推測され、菩提寺から代々口伝により伝えてられております。当時公家であった住井家は、1570年頃に伏見・深草へ移り、その時の帝より「深草の真竹を使って、うちわづくりを差配せよ」と命を受け、深草の人々を動かし、天正年間(1573~92年)に「深草うちわ」を確立しました。
 寛永元年(1629年)より、うちわを差配だけではなく、製造するようになり「小丸屋」を屋号として商売を始めました。うちわ文化は、衰退の一途をたどっておりましたが、花街の皆様のおかげで現在まで守り続けられております。
 また、日本舞踊の小道具と舞扇は、各御家元様や各御師匠様にご贔屓を頂き、小道具や扇子屋として商売を広げられたことにより、うちわを作り続けることができました。
 今現在、うちわや扇子に携わる職人が減ってきている中、職人を守るために新しいモノ作りをして活気づけていかなければならないと思っています。昔のデザインを復刻するだけでなく、今と昔のデザインをアレンジしたりとアイディアを盛り込み、小丸屋の色使いや、インテリアなど小丸屋ブランドとして独自の商品展開を考えております。

 そして今、京都には大変多くの外国人観光客が来られるようになりました。そこで、うちわや扇子・日本舞踊などの日本文化をより一層広く、さらに深く知ってもらいたいという思いが強くなってきました。そこで、文化発信の拠点になれればと思い、今までの工房社屋の隣に、ギャラリーサロンを作りました。文化に触れて実際に使っていただくことで、活気づけられることに貢献したいと思っております。

 また、海外から継承についての講演依頼も多く、出来る限り皆様と共に良くなり、私でお役に立てればと思い、ご依頼にお応えしております。日々精進しながら参りたいと思います。

先祖代々守ってきた「うちわづくりの技術」を絶えさせないために、新しい深草のうちわを作っている

Q2.ビジョンを具現化するために、どんな目標計画を立てて「うちわ」をつくり続けていますか?

住井
 今現在、小丸屋の中でのうちわの商いは、先祖代々守ってきた「うちわづくりの技術」を絶えさせてはいけないという思いで、色々と新しい深草のうちわを作り続けております。

 そのうちの1つが「新深草うちわ」の誕生につながる、名所図会157景シリーズです。このうちわの完成に際しては、大きな出会いがありました。
 龍谷大学の宗政五十緒先生が現代文学の研究と共に、長年「都をどり」の監修を成されている先生との出会いから、元政上人ゆかりの「深草うちわ」を復刻させようとおっしゃっていただきました。その際、宗政先生がアイディアを色々と出して下さり、その中の一つが「拾遺都名所図会」をはじめとした「名所図会」を絵柄にしたうちわの制作でした。
 また、琵琶湖の水をいただいていることの感謝をしたいと常々思っていたところ、葦1本で10ℓの水が浄化され、稚魚を守る役目と魔を祓う力がある事を聞きました。うちわを仰ぐことで魔を祓いたいという思いから、神事にも使われてきた葦紙でうちわを作ることで貢献できると思いました。
 
 そして、新深草うちわの誕生から幾月か経った頃、瑞光寺和尚様から「元政上人から頂いたうちわを家宝として代々守っておられる東京の方が来られました。」と連絡がありました。このうちわの発見のおかげ様で、正確な「お棗型」の元政型深草うちわの復刻へと繋がりました。
 
 現在一般のお客様向けに、お名前をオリジナルで入れさせていただくことができる「手書き名入れの京丸うちわ」を扱い始める事となりました。

 私からそういうことをしようというのではなく、偶然にもその時出会った方達とのご縁のおかげで数々の新しい深草のうちわが誕生しております。

記者:先祖代々守ってきた「うちわづくりの技術」を絶えさせてはいけないという住井さんの思いが色んな形でご縁に繋がって、深草のうちわが認知され使われていらっしゃるのですね。

神様の心にかなう心を持ち、ご先祖を守る事

Q3.日々の活動や生活の中で特に大切にされていることは何でしょうか?

住井 私が特に大切にしていることは、神様の心にかなう心を持ち、ご先祖を守る事です。
 代々のご先祖様を逆ピラミッドのように調べていき、供養をさせて頂いたりお墓を調べたりしていますと必ずと言っていい程、お墓の場所をご案内してくださる方にお目にかかることがございました。これも神様やご先祖様のお導きだったのだと実感しております。

記者 本当に偶然ではなく、ご先祖様に導かれていらっしゃいますね。

住井 祖母の父である房次郎は、昔から頭が良く、神社の手水の石を持ち上げれるぐらい力持ちで、武術にも優れていた方でありました。そのご先祖さまは、明治24年(1891)のロシア皇太子暗殺未遂事件(大津事件)の時に、明治天皇様より警護を房次郎に頼みたいと勅命があり、護衛についていたそうです。祖母の姉も御所に行儀見習いに行っておりましたので、何かしら先祖から宮家とのつながりがあったのだろうと思います。

まさに「ピンチはチャンス」

Q4.「うちわ」をつくり続ける中で、思い出深いエピソードなどはありますか?

住井 十年ほど前、ある財団から京丸うちわを千本ご注文いただきました。これまで、うちわの骨は昔から真竹を使用しておりましたが、財団から「小丸屋さん以外のうちわは、孟宗竹で作っているのだから、同じものを使っていただいて大丈夫ですよ」とおっしゃっていただきましたので、その材料を使用して京丸うちわを作りました。沢山の骨の中から良い骨を選び1000本揃えたのですが、うちわのアゴ(柄の上の部分)のズレがあり、最後の仕上げのヘリをして始めて形の歪みに気づきました。すると真竹と孟宗竹では仕上がりが全く違って形が崩れていました。形を整えるために曲げていくとすぐに折れてしまったり、力加減に大変苦労しましたが、千本のうちわも貼り直すことができ、無事納期までに納めることができました。真竹と孟宗竹の粘りの違いが良く分かりました。
 その後5年ほど経った頃、一花街の置屋さんから注文のお断りが多く出ました。何か失態があったのか女将さんにお伺いしたところ、「うちわは住井さんの所が一番いいけど、安いのに切替えました」と伝えられました。自分のお店の失態ではなかったことに正直安堵いたしました。
 それまで十年以上京丸うちわの値段を上げずに真竹を使い続けていましたが、真竹の骨の材料代は年々上がっており、利益無く納めていた現状でした。この事を機に、孟宗竹に切り替える一大決心をしました。その決心の後押しになったのが、財団へ千本のうちわを納めた経験でした。試行錯誤のおかげで、スムーズに孟宗竹での製作ができるように職人も成長しておりました。まさに「ピンチはチャンス」であったと思いました。


記者
 京都の伝統文化やモノづくりに対する日本の精神を「うちわ」を通して世紀を超えて、伝え続けていらっしゃることが素晴らしいと感じました。
そして、常に「ピンチをチャンス」に変えられるバイタリティ、人と人とのご縁を大切にし、そこからうちわを通してお互いがWin-Winできる関係構築力を学ばせていただきました。本日はご貴重なお話をどうもありがとうございました!

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「小丸屋 住井」の詳細情報はこちら

【編集後記】インタビューの記者を担当した小畑&室岡です。
 日本の伝統文化を通して、国内外問わず世界の方たちに「日本の伝統文化」や住井さんの活動や思いが伝わることで、日本の価値をより多くの方たちに感じていただきたいと思います。さらなるご活躍を心よりお祈りしています。
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この記事はリライズ・ニュースマガジン”美しい時代を創る人達”にも掲載されています。

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