「見る」と「観察」の違い 考

私達は「見ているのに見えていない」ということがよく起きる。道端の石ころ(路傍の石)は目に入っていても気にもとめない。自分の大切な人の変化も、目の前にいるのだから見えているはずなのに気づかない。そんなことがいくらでもある。

ナイチンゲールに次の言葉がある。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
看護師になるには、「見てる」だけではダメで、観察することが大切だと言っているのだろう。

職場でも学校でも「よく見ろ!」と叱られることがある。しかしただ「見てる」だけでは何も気づかなかったりする。見たいものだけが見えて、見えないものは見えないまま。たぶんこれは「観察」と違うのだろう。

で、仕方がないから、多くの場合、なるべくたくさんの「見てる」で済ます。世間ではこう言われている、という話を聞き集め、それを受け売りすることで「見てる」を増やす。「見てる」の数を競って、自分の「見てる」の多さを競う。しかしこれでもまだ「観察」ではない気がする。

観察とは、「今の自分がまだ見えていない、気づいていないことを探す」ことなのかもしれない。
先日、息子が12の倍数を調べて、何か法則がないか見つけようとしていた。2桁の倍数で一番大きなのは96。3桁なら996。4桁なら9996。5桁99996。あれ?

ここで息子、9を並べて最後の1桁を6にしたら、その桁での最大の12の倍数になる、という「法則」を見つけた。次になぜそんな法則が成り立つのか、理由を考えると、900,9000、90000・・・などは12の倍数で、96も12の倍数で、その組み合わせでしかないから、ということを発見。

次に96、996、9996、99996を12で割ると、8、83、833、8333・・・というように、最初を8にして、あとは3を並べておけばよいことを発見。息子(小4)の様子を見て、そんなふうになるの、知らなかったなあ、と驚いた。息子のやっていたのは、まさしく「観察」だと思う。

観察というのは、「見てる」だけではできない。そこで、いままでやったことのないアプローチをしてみて、それで起きることを五感使って情報収集することなのかもしれない。
その意味で、赤ちゃんは観察の達人。初めて触るものに対し。

かじったり叩いたり投げたり落としたり振ったり。見たことのない事物があれば、ありとあらゆるアプローチを試す。それにより、「これはこういうものらしい」ということを、言葉にならない情報を五感通して収集する。

逆に言葉が通じるようになってくると、子どもは観察力を失うことが多い。これは恐らく「これはこうするものだよ」「あれはああいうものだよ」と大人から教えられ、ものの見方を大人からはめ込まれてしまうからかもしれない。しかしこの程度なら、まだ観察力を失うことはないだろう。

しかし、大人から扱い方、見方を押し付けられ、それ以外のアプローチを許されなくなったら、観察力を失うだろう。観察とは、今までとは違うアプローチをしてみることとセットだから、違うアプローチを禁じられたとたん、観察は難しくなり、「見てる」だけになる。

だから、息子や娘が何かやってるときに、危険がない限り、口出しはしないようにしている。観察の邪魔をしないように。口出しはしないが、子どもたちの様子を観察する。昨日と今日で、どんな違いがあるか「差分」を探す。そして差分に気づいたことを伝える。あるいは差分に驚く。

すると子どもはますます観察に熱が入る。見ていてくれたという喜び、差分に気がついてくれたという喜び、差分を生むための工夫で大人を驚かすことができたという達成感を味わえる。すると、ますます、今まで試したことのないアプローチを試して、何が起きるかを「観察」しようとする。

観察すると、「こんなことが起きるのか!」という驚き、発見がある。驚きや発見は、予想していたこと、想像していたことと違うので、強い印象を受ける。たった一度で記憶に刻まれる。こうした体験の蓄積は、様々な知識を拾い上げるアンテナ、受け皿になる。

その現象は何という名前なのか知らなくても、体験が豊富だったとき、授業で習ったり、本で見かけたり、テレビで見てたりしたときに「あ!これ見た(観察した)ことがある!」と、ビビッドに反応する。その現象に名前があることがわかったら、一発で記憶に刻まれる。メカニズムの説明も覚えてしまう。

これに対し、「見てる」の場合は見たいものしか見えない。「ああ、それなら(前に教えてもらって、あるいは勉強して)知ってるよ」と、あらかじめ知ってることにだけ反応する。あるいは、あらかじめ知ってることにしか反応できない。できることは、あらかじめ知ってる知識を増やしておくことのみ。

「見てる」では、誰かがすでに気づいたこと、発見済みのことにしか気づけない。まだ誰も発見していないことに気づくことは非常に難しくなる。自分がすでに知ってることにしか反応できないから。だから、見たいものしか見えなくなるのだろう。

たまたま、自分の知らないことが目に入っても、既存の知識で料理できない場合、なかったことにしたり、見なかったことにしたり、あるいは、何としてでも既存の知識で料理しようとしたり。こうして、せっかくまだ誰も気づいていない現象を「見てる」のに見えない、ということが起きるらしい。

観察が「まだ気づいていなかったこと、知らなかったことを探す」行為であるのに対し、「見てる」は「すでに知ってることを探す」行為なのかもしれない。
そして恐らく、「見てる」は大人が教えすぎ、自分のものの見方通りに物事を見るように強いることから出来上がる見方なのだろう。

赤ちゃんは観察の達人なのだから、そして小学校入学以前の幼児は、まだまだ観察する力を失ってはいないのだから、大人が変に「見方を教える(強いる)」ことさえしなければ、子どもは観察力を失うことはないように思う。

子どもの観察力を奪わないようにするためには、大人が先回りして教えようとするのではなく、むしろ「後回り」するくらいのつもりで、危険がないようにだけ気をつけ、子どもがいろんなアプローチを試して、五感で情報を吸い出そうとするのを観察していればよいだけだと思う。

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