体験は全集中の機会を作るため

小さい頃、母親が動物園に連れて行ってくれた。私はそれぞれの動物についての説明を最初から最後まで読みたかったのだが、「さあ、次はキリン見に行こ!」と、次から次へと移動するので、動物だけサッと見て歩くのが残念だった。まあ、弟二人が小さかったからやむを得ない面があったけれど。

まだ幼稚園生くらいの頃、息子を動物園に連れていくと、動物をじ~っと観察し、動物についての説明文を、最初から最後まで丹念に読みたがる。ああ、自分もそうしたかったよな、と思い、本人が満足するまで付き合った。さらに幼い娘はYouMeさんやおじいちゃんおばあちゃんに任せて。

今回、ずいぶんツイートがバズった。たくさんのご意見が寄せられ、その中に「子どもにたくさん体験をさせたい」といううれしい反応がたくさん寄せられた。他方、少なくはあるが、体験とは言っても…というご意見も。今回、それについて少し考えてみたい。
https://note.com/shinshinohara/n/nab00da2b2762

実は、体験は多ければよいというわけではない。前にもまとめたこの記事には、ボーイスカウトに親子で参加し、自然のいっぱいある場所に積極的に連れて行ったのに、自然への興味を失ってしまった事例を紹介してある。原因は2つ考えられる。
https://note.com/shinshinohara/n/nfe9f3727c1a1

一つは、親自身に関心がないこと。ボーイスカウトの親子の事例では、親がゴール地点で早く酒を飲みたく、子どもが途中で自然や生命に関心を持っても「それは何々だよ、さあ行こう」と、ゴールへゴールへと引っ張ったこと。子どもは次第に、自然や生命を「路傍の石」とみなすようになった。

もう一つは、夢中にさせる暇を与えなかったこと。おそらくボーイスカウトの親子の場合、子どもが道中で自然や生命に関心を持たなかったはずはない、と考える。しかしそれに夢中になり、関心を持つゆとりを与えなかったため、次第に「どうでもいいや」となってしまったのだろう。

昨今話題のモンテッソーリ教育でも、子どもが夢中になって取り組む「時期」があるという。障子に穴をあけるのに熱心な時、そのままにしたら異様な集中力でそれを続ける。しかしそれを「ダメーッ!」と止めると、後日大掃除で「さあ、好きなだけやりなさい」と言っても興味示さなかったりする。

赤ちゃんはある時期、物を落とす、という現象に夢中になる。スプーンや食器を床に落とす。わざと。これを行儀悪いとたしなめたくなる気持ちは分かる(食べ物もダメにしてしまいがちだから)。しかし、これは赤ちゃんが「落下という現象をしゃぶり尽くしたい!」と、夢中になっている時期。

ええい!もう好きなだけ落としなさい!飽きたら片付けるわ!と腹をくくり、食器を落とし続けることに付き合ってあげるとよい。その際、できれば「驚く」のが望ましい。すると、子どもはますます夢中になる。「あれ!いま、いい音したねえ!」「お皿がクルクル回っているよ!」

すると、子どもはどんな音が鳴るのか、注意深く観察する。どんな風に落下したらお皿がクルクル回る現象を再現できるのか、落とし方を工夫したり、落ち方をよく観察するようになる。こうして、落下という現象や回転、発音という物理現象をしゃぶり尽くすように観察する。

モンテッソーリ教育では、子どもが夢中になっているときは邪魔しないことを推奨している。私も同意見。このとき邪魔をしないでいると、子どもは五感を全集中して現象を観察し、しゃぶり尽くそうとする。ありとあらゆるパターンを試し、知り尽くそうとする。その知的探求心の強さといったら。

近年、Grit(やりぬく力)が注目されている。私は、幼児期に見られるこの集中現象こそが、やり抜く力の源泉ではないか、という仮説を持っている。いったん集中すると、この現象のすべてを見極めようと、様々な角度から試行錯誤し、観察する。その力は、やり抜くまで努力するグリットそっくり。

しかし、親があまりにも多様な体験を与えようと張り切り過ぎると、子どもの「全集中」を妨げることになる。これは、せっかく感動的なドラマを見ている最中なのにひっきりなしに電話やチャイムが鳴り、「もういいや」と諦めてしまうのに似ているかも。厄介なのは、興味そのものが消えてしまうこと。

多様な体験をさせることはよいことなのだけれど、次の要件を満たすためだということを忘れないようにしたい。それは
①子どもが全集中して観察したくなるものに出会うためだということ。
②全集中して取り組み、観察し始めたら、それをできるだけ邪魔しない。
③一緒に驚く。

子どもには個性があり、何に興味関心を持ち、全集中し出すかは分からない。息子に祖父母からかわいい人形がしばしば送られたが、息子は必ず両目に目つぶし喰らわすのが常で、あまり人形遊びをしなかった。対して、娘は教えもしないのに人形でままごとを始めた。子どもによって全然違う。

いろんな体験をさせる中で子どもがビビッと強く反応する分野を探す。そのために、いろんな体験を子どもにさせるのは大切。しかし、「できるだけたくさんの体験をさせる」という体験数至上主義に陥ると、かえって子どもの全集中を妨げてしまう。これでは本末転倒。かえって体験が「路傍の石」化する。

子どもが全集中し出したら、変にほかの体験もさせようとするのではなく、なるべく邪魔をしないようにする。そしてできれば放置するのではなく、横に一緒にいて、驚く。驚きながらそれとなく、現象の「目のつけどころ」を伝える。「わあ、大きな音が鳴るねえ」「花の真ん中の黄色いの、何だろう?」

すると、子どもたちは、それを手掛かりに再び全集中して観察し、試行錯誤を繰り返す。その際、「成功する方法」を意識する必要はない。大人はついつい、おもちゃの正しい遊び方を教えたくなるけれど、子どもはそんなことお構いなし。それがおもちゃかどうかも忘れて、現象をしゃぶり尽くしたい。

レールを投げて遊び始めたら、レールをつないで電車を走らせるという大人の思惑はちょっと忘れて、「投げたら飛んでいく」という現象を一緒に突き止めることを楽しんでしまう。驚きながら。「おお!いま、遠くに飛んだねえ!」「あれ?ポンポンはねていったよ!」

そうした遊びは「本来の遊び」からずれているかもしれない。しかしそうした「正解」は大人の側の事情。子どもが関心を持った現象があるなら、大人も付き合ってあげるとよい。これが「体験ネットワーク」を非常に強烈に構築し、しかも応用力のある形で延伸していく。

息子は赤ちゃんの頃、バウンサーのそばにぶら下がっていたヒモを引っ張って遊ぶのが好きだった。このため、お風呂に入っているとき、蛇口から出る水の糸をみて、つかもうとした。すると、つかめない。息子は目を瞠った。私も「あれ?つかめない!」と一緒に驚いた。息子は何度もつかもうとトライした。

息子は水の糸をつかもうと30分くらい格闘していただろうか。水の糸は手のどこかに触れると途端にヒモの形を維持できなくなり、皮膚の上をしたたり落ちる、という観察結果を、何十回も繰り返した挙句、納得し、水というものの性質を理解したようだ。

体験はなるほど、幅広い方がよいだろう。しかし、それ以上に大切なことは、全集中して観察し、試行錯誤している状態をなるべく邪魔しないこと。そしてできれば一緒になって観察し、ともに驚くこと。すると、子どもの観察力はさらに磨かれ、試行錯誤の方法も念の入ったものになる。

子どもはどうやら、「一つの現象に含まれている普遍性」をかぎ取るのにものすごく鋭敏であるらしい。水の糸をつかもうとする挑戦からは、水の性質だけでなく、下に向かって落下する重力、水の固さ、表面張力、などなど、様々な普遍的な現象が含まれている。体験ネットワークが一個の現象から広がる。

赤ん坊のころに、食器を下に落として遊んだ現象からは、やはり下に落下する重力、食器の固さ、壊れにくさ、壊れやすさ、音の高低、回転、さまざまな物理現象を観察し、体験ネットワークが形成される。そして、水の糸から学んだネットワークといくつかリンクし、さらに大きなネットワークになる。

実験科学者は、同じ現象を3つ(n=3)以上観察する(再現性の確認)ことで証明とするクセがついているけれど、子どもの場合は、興味関心を持つことになった、たった一つ(n=1)の現象をしゃぶり尽くし、そこに含まれる普遍的現象を洗い出す力が強い。

以前、ツイッターで話題になった、「コップに入った水」は、理科だと「H2Oが100mL」、社会だと「水道局がコスト〇円で消毒し」、国語だと「冷たい感覚がノドを潤して」と、様々な角度から表現が可能、という話があったけれど、子どもが一つの現象をしゃぶり尽くし、学ぶのもそれに似ている。

ついつい大人は、体験数・体験の種類数を増やすこと(n数を増やすこと)に熱心になってしまい、子どもが全集中してしゃぶり尽くしたいと思っているのを邪魔してしまうことがある。しかしどうやら子どもは、気になった現象をしゃぶり尽くす(n=1)ことで、普遍的なことをくみ取りたいと思うらしい。

私が子育てについて考察するのも、仕事である研究についても、実は、子どものこうした「全集中」に似た方法を取っている。たくさんの事例を扱おうとすると、たった一つの法則を証明することはできても、事例一つ一つに含まれる無限の物語は背景に隠れ、消えてしまう。すると、新現象を見逃してしまう。

私は、子育てにしろ、研究にしろ、「なんだこれ?」と気になったら、その一つの現象(n=1)をあらゆる角度からしゃぶり尽くそうとする。赤ちゃんが、手にしたおもちゃをありとあらゆる方法で味わい尽くす(文字通りかじったり)のと同じように。そして、一つの現象が含む法則・物語を洗い出す。

すると、他の現象で同じようにしゃぶり尽くし、それで生まれた体験ネットワークとリンクし、「あ!これとあれは共通する点があったのかあ!」と、発見し、うれしくなり、それが本当かどうか確かめたくなる。私の研究スタイルはそれだし、子育てに関する観察も、そんな感じ。

こうした研究手法は、子どもから学んだともいえる。子どもは、ふと気になった、たった一つの現象(n=1)に対して、叩いたり投げたり落としたりかじったり、裏返したり回したり他のものとくっつけたり、ありとあらゆることを試行錯誤して、それに含まれる様々な普遍的法則の数々を嗅ぎ取る。

だから、子どもの体験を増やすのは、
i)全集中する現象に出会えるのをアシストすること
ii)出会ったら全集中を邪魔しない
iii)横に並んで一緒に驚き、さらに集中をあおりつつ、観察と試行錯誤を促す
iv)大して関心示さないなら、あまり執着せずに次に行く
といった注意点が必要に思う。

なお、多動症(ADHD)の子は、次から次へと関心が移る。通常の子より集中力が半端ではなく、短時間にあらゆる試行錯誤を完了して、次の関心事に移る。移り気なのではなく、通常より集中力が強く、短時間に試行錯誤が完了するだけなので、それはそれでその子の学習スタイル。あわただしいけど。

逆に、自閉症スペクトラムの子は、あまり新しい現象に移りたくない。私はそれで構わないと思う。たった一つの現象も、実にたくさんの普遍的法則が含まれている。重力、硬度、音、温度、材質、等々。一つのことから学ぶ力が強いので、その子のペースで関心が広がるのを待ちたいところ。

子どもは個性様々。何に関心を持つか、わからない。しかしもし全集中して観察したがるものに出会えたら、それをなるべく邪魔せず、見守ってほしい。できれば見守るだけでなく、子どもと一緒のところに降りて、一緒に驚いてほしい。子どもは驚きを共有するのがことのほか大好きだから。

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