「ナメられないように」よりも・・・「存在」よりも「関係性」

私は昔、「舐められてはいけない」と身構え、虚勢を張る人間だった。まあでも張り子のトラであることはバレていたと思う。
いつしか私はそうした虚勢を張るのをやめてしまい、オッチョコチョイでドジなのを隠さなくなった。それでも長いこと、研究室はうまく回ってる気がする。なんでだろう?

外目にもそうらしく、「篠原さんとこ、すごいよねえ」と別部署の人が時折話しかけてくれる。みんな楽しそうに、それでいて仕事をしっかりこなす人ばかり。スタッフ数が7名にもなるのにトラブルめいたものがない。それはすごいことなのだとその人が時折教えてくれる。よそはどうだか私は知らんけど。

私がオッチョコチョイなもんだから、スタッフのみなさんがしっかりしてくれてるような気がする。「篠原さん、忘れてませんか?」とよくスタッフの方たちが注意してくださる。私が何を忘れやすいか、クセを知り、私のスケジュールを見て注意喚起してくれる。本当にありがたい。

ナメられるという意味では、これほどナメやすい上司はないだろう。本当にオッチョコチョイだから。でもみなさんとても丁寧に接してくださる。私の至らないところをフォローしてくださる。本当にスタッフに恵まれているなあ、と感謝にたえない。不愉快な思いをすることは本当にない。すごいこと。

なんでだろう?「ナメられてはいけない」という人の話、過去の私の振る舞いを思い返すと、一つ気づいたことが。虚勢を張り、ナメられるまいとしていたとき、私は自分という存在、相手という存在ばかり考え、自分という存在を大きく見せようとばかりしていた。虚勢張ったって大きくなりなどしないのに。

私は今、「存在」ではなく「関係性」に注目するようにしている。みんなが楽しく仕事ができる関係性とは何か、それを損なう関係性とは何か、ということ。自分とか相手とかの存在を気にするのではなく、関係性をどう良好な状態に持っていくか、を考えるようにしている。

みんなが楽しくやってけることは大歓迎、誰かだけが独善的、利己的に振る舞い、みんなを苦しめるようなことには容赦しない。この2つの「ルール」を大切に守るようにしている。すると不思議なことに、みなさんそのように振る舞ってくれる。たぶん、そのほうが楽しいとみんなわかるからだろう。

私は相手を「あいつはこういうヤツ」というような、存在を定義するようなことはしないように気をつけている。人間は、優しく接してもらえば穏やかになり、厳しく接せられれば不機嫌となる。関係性によっていかようにも存在は変化してしまう生き物。

ならば、存在をあれこれ考えても仕方がない。関係性を工夫することのほうが建設的。そして、あれこれ工夫してきて思ったのは、
・みんなが楽しく過ごせるようにするには。
・それを邪魔する言動をどう抑えるか。
この2つだけ心がければ、関係性は望ましい方向に転がっていくように思う。

そして私自身が率先してその「ルール」に従えば、みなさんも同じように気をつけてくれるようになった。私は今、特にスタッフの人たちに対して上下を設けることはしていない(制度的な上下はもちろんあるけど)。それでもチームが有機的に動いてくれるのは。

みんなが楽しく過ごせるようにするには?それが行えなくなってしまう言動とは?という2つに注意してみなさんが行動してくれるからだと思う。みなさん、自発的に能動的に動いてくださる。まるでチームが一つの生き物のよう。すごいことだなあ、と思う。

「ナメられるまい」というのは、自分の存在と相手の存在のどちらのほうが上か、という発想に陥りやすい。あまりうまい関係性の作り方ではないように思う。上下関係をはっきりさせることだけが目的化してしまい、「みんなが楽しく仕事するには」が後退してしまう。

職場というのは、みんなが楽しくアクティブに仕事ができていたらそれでよい空間。誰が上とかどうでもよい。みんなが楽しく働ける場にするには、どんな関係性にデザインするか。そこに心を砕くようになってから、研究室運営が本当に楽になった気がする。

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