「上手くなれ」よりも楽しんでもらうこと

自分は努力したから今の地位がある、と考える指導者や親は、「だから努力しなさい」という指導になりがち。そして「努力すれば上手くなる」という指導になりがち。みんな上手くなりたいはずだ、上手くなるには努力しなければならない、と。しかしその指導だと脱落者が多くなる。

たとえばピアノだと、たとえつまらなくても苦しくても、上手くなりたければバイエルの練習曲を弾きなさい、となる。すると、ピアノ教室に入るまではピアノの弾くのが大好きだった子が嫌いになることが多い。そうした子に指導者は、「努力しない時点で見込みはない」と切り捨てる場面をよく見る。

自分は努力したから出世できた、と考える上司は、部下はみな出世したいものと考え、あるいは出世を目指さないヤツはハナからダメだと考え、出世を目指せ、そのために努力しろと尻を叩く。その結果、部下のやる気、意欲を奪い、指示待ち人間に仕立ててしまったりする。

「オレみたいになれ」と考える指導者だと、「オレは努力したから今がある、だからお前も努力しろ」となりがち。しかしその指導を受ける部下や生徒は楽しくない。面白くない。最初に見せていた意欲は消え去り、イヤイヤやるようになり、指導者を苛立たせる。やがて「オレみたいな努力家は一握りなんだ」と自画自賛に。

でも、私は思う。そうした指導者達は、なぜ努力したのか、と。私が思うに、楽しかったからだと思う。ピアノを弾くのが楽しい、書道をするのが楽しい、お客さんの喜ぶ顔が嬉しい、あるいは人に認められるのが嬉しい。嬉しさ、楽しさをどこで感じるかは千差万別だけど、何かしら楽しかったはず。

楽しかったから上手くなりたい、上達したいと思い、努力し始めだのだと思う。だとしたら、努力したから指導者になれたと考えてる人達も、恐らく、楽しさが何らかの形であったから上手くなりたい、努力したいと思えるようになったのではないか、と私は考える。

だとすれば、「上手くなりたいだろ、だとしたら努力しろ」という指導法は、その指導者の体験から考えても、おかしな指導法だということになる。上手くなりたいと思う前に「楽しさ」があったはず。上手くなりたいという願望は、楽しむことの結果として出てきたもので、原因ではないと考えるべきでは。

丸や三角、四角のプラスチックを、その形の穴に入れるオモチャがある。幼児は最初、どうして入らないのか、不思議に思う。三角の穴に四角を突っ込もうとしたり、丸の穴に楕円を押し込もうとしたり。たまに偶然通ることが不思議でのめり込む。ものすごく集中する。楽しくて仕方ないのだろう。

楽しいからずっと続ける。何度も繰り返すから上手くなる。やがて難なくすべてのプラスチックを入れられるようになり、速度を競うようにして遊んだりする。上達する。そんな風になるのも、楽しいから。楽しいからのめり込み、のめり込むら繰り返し、繰り返すから上手くなる。

親が「早く上手くなるように」と、丸はこちらでしょ、とか、先回りして教えると、子どもは興味を失うことが多い。自分の力で発見したいのに、親が教えたら、親の功績になる。手柄を横取りされた気分。面白くなくなり、楽しくなくなり、のめり込めなくなる。上手くならなくなる。

上手くなるよう指導することは、楽しめるような環境を用意することよりもずっとずっと後にした方がよいように思う。楽しくてすっかり好きになり、すでに上手くなり、もっと上手くなりたいという意欲がもはや途切れることはない、というところまで「楽しめた」生徒なら、上手くする指導はよいかも。

しかし、大半の子ども、人間はそこまでいかない。まだ楽しさがわからないうちに「上手くなれ」「努力しろ」と言われれば、辟易してやる気を失う。そんな指導は、既にトップクラスになって承認欲求が満たされつつある生徒にしか巧くマッチしないように思う。全体としては学力を下げる恐れがある。

私は、楽しむことこそ重要なように思う。上手くなる必要もない。努力する必要もない。ただただ、楽しむ。楽しむための仕掛けを指導者は用意する。何事も楽しめる仕掛けを。
「楽しむ」と言うと、漫画やテレビゲームなど逃避的な遊戯だと捉えられることがある。私は、どんなことでも楽しめると考える。

子どもは、人間は、学ぶことが大好きで、働くのが大好き。体を動かすのも大好き。楽しめさえすれば、何時間でものめり込める。ヘトヘトになるまで続けられる。まるで上手くなりたいかのように。まるで大変な努力家のように。楽しむ人は上達し、知らぬ間に努力する結果となる。

上手くなること、努力することは、「結果」ではないか、と思う。楽しんでいれば自然に工夫し、工夫するから上手くなり、それが楽しくてのめり込み、のめり込むから何度も繰り返し、知らぬ間に努力家みたいな風情になる。上手くなることも努力することも、楽しんだ結果なのだと思う。

私は、学生やスタッフを指導する際に、楽しんでもらえるよう気をつけている。どんな仕事でもまなびでも、私は楽しめると思っている。楽しむコツは、能動感。
自分が働きかけることで何かが変わった、という能動感を味わえると、人間は楽しくなり、のめり込むようにできているらしい。

私はなるべく、ああしなさい、こうしなさいと先回りすることをせず、「次、とうしたらいいと思います?」と問いかける。間違っていても何も気にせず、むしろトンチンカンな答えを楽しんでいる。「ああ~、違います。ヒントは、ここ」とか言って、さらに能動的思考を促す。

答えが近づいてくると「おおっ!近づいてきた!」と驚く。見事正解に至ると「おお!素晴らしい!」と驚き、喜ぶ。私が驚くので、自分で考え、答えを探るのが楽しくなってくるらしい。すると、私が何も言わなくても「これはこうするんですか?」と私より先回りして考えてくれる。

すると私は驚き、喜ぶ。私の指示になかった工夫を思いついてくれたら驚き、喜ぶ。私が気づいていなかったことに気がつき、補完してくれたら驚き、喜ぶ。こうして、学生やスタッフの能動的な動きがあれば驚き、喜ぶと、能動的に動くのが楽しくなるのか、能動的になる。私はますます驚く。

能動的に動くことは、本人がそうしようと思わない限り起きないこと。私にはどうしようもない。だから能動的になってくれたら驚くよりほかない。しかし、驚くからこそ、人は能動的になるらしい。能動的に動いて誰かが驚いてくれるなら、どんなことであっても能動的に動くのが楽しくなるらしい。

誰かが「驚く」という現象は、自分が能動的に動くことで何らかの変化をもたらせた、と感じる(能動感)ことができる、最もわかりやすい目安であるらしい。だから、驚く人がいると、その周囲の人は能動的になる。能動的になることが楽しくなるから。

幼児はよく、「ねえ、見て見て!」という。昨日までできなかったことが今できるようになった、そのことに親が驚いてくれることを期待して。驚くことは、子どもの能動性を促す最高の触媒のように思う。

これは恐らく、赤ちゃんが最初に言葉を話したり立ったりしたとき、親が驚き、手を叩いて喜んでくれたことをどこかで覚えているから。自分の工夫や発見、成長で親を驚かせたい。それが楽しくて工夫し、努力することを楽しむ。これは恐らく大人になってもそう。

ならば、上手くなれ、努力しろ、なんて指導する必要は、トップアスリートでもない限り必要ないのでは。ただひたすら、楽しんでもらえるようにすればよいのでは。そして楽しみが最高になるよう、工夫や発見、成長に指導者は驚いていればよいだけなのでは。

子どもや部下が楽しめるようにさえすれば、勝手にのめり込むという形で努力することになるし、のめり込むから上手くなる。工夫に驚けば、工夫することが楽しくなるので、工夫をやめないからどんどん進化する。驚くことは、どんなことも楽しめるようにするスパイス。

子どもの、部下の能動性を引き出すのは、驚くこと。私はそう考える。驚くことで、子どもや部下は、能動的に取り組むこと自体が楽しくなり、楽しいから工夫し、楽しいから努力を続い、楽しいから苦労を苦労とも思わない。だから上達するのだと思う。

楽しむこと、楽しめるようにすることを指導の肝に据えれば、「上手くなれ」「努力しろ」という、トップ選手にしか通じない指導法と比べ、恐らく全員が能力を高め、学力を高めることになると思う。
上手くなることよりも楽しむこと。それを指導の基本に据えてはどうだろう。

楽しんでさえいれば、上手くなれなんて言わなくても上手くなる。上手くなることは、楽しんだ結果に過ぎない。そう考えて指導すると、子どもは、部下は、能力の開発具合が全く違うものになるように思う。

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