デカルトからの脱却を

現代に生きる私達は、騙されないためには「疑う」ことが必要だと信じている。昔、新聞の広告で「新聞を疑え」というキャッチフレーズがあった。疑ってかかることで真偽を見極める目を自ら養え、ということなのだろう。けれど。

疑り深い人ほど信じて疑わなくなるという厄介な副作用が「疑う」にはある。いつも疑うのは自分の好みに合わない考え方で、信じるのは好みに合うもの、という状態。疑えば疑うほど「信じたいものを信じる」というおかしなことになるように思う。こうした厄介な問題を起こしたのはデカルトだと思う。

デカルトは「方法序説」で2つの原理を示した。
①すべての既成概念を疑うか、ないしは否定せよ。
②確かと思われる概念から思想を再構築せよ。
これはとても魅力的な提案だった。当時はキリスト教が旧教と新教の真っ二つに割れて「自分こそ正しい、相手が間違ってる」と主張していた。

でもデカルトの方法なら、一切合切を疑ってかかり、否定するから、全く正しい事柄だけで思想を再構築できる気がした。誤りを一切含まない、完璧に正しい思想を。デカルト以降の思想家は、この提案に乗って思想を根底から再構築し直す作業を行った。

しかし、デカルトの提案には大きな副作用があった。自分が素朴に信じていたものを疑ってかかるというのはとてもつらい作業。このため、「こんなつらい思いをして再構築した思想が間違ってるはずはない」と信じ込みたくなるという心理が、どうやら人間には働きやすいということ。

こんな辛くて苦しい作業をやり通した人間は、もしかしたら世界広しといえども自分ひとりだけではないか、という思いが、自分の思想は絶対に正しくて、違う意見を述べるヤツは間違ってるに決まってる、という考えに取り憑かれやすくなる。そう、デカルトの「疑う」をやると、信じて疑わなくなる。

私は、自分を疑り深い人間と信じ、故に自分の意見は絶対正しいと信じる人を「リュクールゴスの亡霊」と呼んでいる。
リュクールゴスは、スパルタの国政から風習まですべてデザインし、スパルタをギリシャいちの強国に仕立て上げたという伝説上の人物。デカルトは「方法序説」の中で。

このリュクールゴスを取り上げ、「一人の人間がデザインした都市は統一感があって美しい」と述べた。デカルトは、リュクールゴスがスパルタという国をゼロベースから再構築したのと同じように、思想も根底から再構築し直したら美しく統一感のある思想を自分のものにできる、と提案した。

そんな大事業を成し遂げたら、そりゃ信じたくもなる。その結果、自分の思想を疑わなくなる。自分ほど疑り深く思想を再構築した人間はこの世にいないのだから、正しいに決まっている、と。

デカルトの「疑う」という提案は、その後の近代合理主義に大きな副作用をもたらしたように思う。多くの迷信を葬り去る代わりに、多くの独りよがりな妄信を生み出したと言える。

私は、デカルトの「疑う」を採用する必要はないように思う。「前提を問う」で十分。物事はすべて、それが正しいとする根拠、前提がある。その前提はどんなものかを尋ねたら、どこまで根拠のある話なのかが見極められる。

そして面白いことに、ほとんどのことは前提のまたその前提を問うと、「よくわからない」にたどり着く。どんなことでも、前提を問いまくると「はっきりと確実なことというのはない」ということがわかる。ならば、一応何を前提にしているのか1段階だけは確認して、それ以上問わないことにする。

そして、どんな思想や理論も「仮説」に過ぎないと考えることにする。今のところ妥当性があると思われる仮説に過ぎない、と。もしその仮説が妥当だとおもわれる根拠、前提が崩れたら、別の仮説に乗り換える、という姿勢。私はこうした考え方の方がよいように思っている。

とりあえず、現在採用している仮説で問題がないのなら、いちいち疑わない。その仮説を採用したままとする。もし不都合が起きたり、仮説が正しいとする前提が崩れたら、別の仮説に乗り換える。その方が、疑り深くなるより省エネで、バージョンアップもしやすくなるように思う。

デカルトの「疑う」で構築した思想は、いわば自分の作り上げたOSは完璧と信じ込み、ウイルスになんか感染するはずがない、と頑迷に信じてしまうようなもの。
「前提を問う」は、必要ならパッチを当てて対応し、どうも根本的にダメだな、と見たらOSの根本的バージョンアップもためらわないようなもの。

しかし、いまだに近代合理主義の影響下にある私達は、疑う故に「信じて疑わない」状態に陥りやすい。そろそろデカルトの作ったOSから乗り換えた方がよいように思う。

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