失敗、試行錯誤、工夫を楽しむ

仕事ができない、指示待ち人間ばかり…そんなため息めいた言葉を聞くと、自分のことを言われているんじゃないかと悲しくなる。私は30歳くらいまで、まさにそうした人間だったから。自分がなじられているような気分になってつらくなる。
https://ix-careercompass.jp/article/6024/

幸い、私は指導者に恵まれてきた。そのおかげで徐々に仕事もできるようになり、自分の頭で考えて行動することもできるようになった。もし指導者に恵まれなかったら…と思うと、ゾッとする。私は間違いなく、根気強く成長するのを待ち続けてくれた指導者の方々のおかげで今日がある。

私は学生の頃、10年間塾を主宰した。成績は公立中学で偏差値50を超えたらよい方、という生徒ばかりだったが、私より素質において劣っていると確信できる子どもはいなかった。適切な指導者にあたれば、きっとこの子たちは私よりも能力を発揮するだろう。しかし当時の私に十分な指導力はなかった。

私よりも才能を花開かせるべき子どもが、私の指導力不足のために十分に才能を発揮できない。その悔いがずっとあった。あの時私はどう指導すればよかったのか?場面場面を思い出しては、一人一人の子どもを思い出しては、何か方法はなかったのかと自問する日々を過ごしてきた。

細々と子どもの指導を続け、仕事で学生やスタッフを指導する場面もあり、そこで試行錯誤を続けた。私を指導してくださった方々の方法をよく観察し、思い起こし、もし自分が実践するならどうすればよいのか、なぜ実践しようとしてもうまくいかないのか、という自問自答を繰り返した。

そんな日々を15年ほど続けているとき、子育ての相談を受けた。その時に頭にまとまったことがあったが、それを子育てのまま公表すると少々難がある。そこで、部下指導に置き換えてツイッターで公表した。それが「指示待ち人間はなぜ生まれるのか」。
https://togetter.com/li/895830

すると瞬く間に40万件以上のアクセスがあり、それをみた編集者の方が、本を書いてみないかと話を持ち掛けてくれた。それが最初の本「自分の頭で考えて動く部下の育て方」。ところが私の最大の関心事は子育て。部下育成本なのに子育てになぞらえた話ばかりで編集者の方も苦笑。

幸か不幸か、私は実家の手伝いやアルバイトなどで営業経験もあったので、子育てになぞらえた話をビジネスの場面に置き換えることができた。私自身を指導してくださった場面も思い起こしながら、書き直した。
この本は、累計5万部を超えることになった。

ただ、私の元々の関心事は子育て。子どもたちが楽しく、力強く生きて行ってもらうにはどうしたらよいか。それを発表する場が来ないかなあ、なんてことを思いながら、あとがきに「最大の関心事は子育て」と書いたら、それを読んでくれた別の編集者の方が、執筆依頼してくれた。

それが「子どもの地頭とやる気が育つおもしろい方法」。そんな流れなものだから、部下育成本と子育て本は、育てる対象が大人と子どもの違いがあり、その違いが内容の違いにもなっているけれど、本質的なところは同じ。どれだけ楽しくとりくめるか、というところに軸がある。

私は子どものころ、「ねばならない」に囚われていた。ところが「ねばならない」から始めると、疲れてしまう。楽しくない。最初は自分を叱咤激励して始めるのだけれど、「こんなしんどい思いしてやらなきゃいけないの?」と疑問がわいて、全部うっちゃいたくなった。

ところが、楽しくて夢中になることには疲れも知らず、疲れてもなおやりたくて仕方ない、という状態になることに気がついた。そうしたものは漫画だったりゲームだったりすることが多いが、必ずしもそれらばかりとは限らない。仕事も勉強も、夢中になって取り組むことがある。いったいなぜ?

楽しいから。楽しいからもっとやりたくなる。夢中になる。楽しければ、通常、みんなから嫌がられると思われている仕事や勉強でも、夢中になって取り組める。
では、どんな時に楽しいのか?逆に、楽しくならないのはどんな時なのか?

人間は一般に、仕事が嫌い、勉強が嫌いな生き物だと思われている。私も若い頃はそう思っていた。それでもバカにされると悔しいから仕方なく仕事したり勉強したりするのだと思っていた。ところがどうもそうではない。人間は働くことも学ぶことも、本来、大好き。ところが嫌いになる原因がある。

それが「ねばならない」。誰かから「ねばならない」と言われたり、自分でもそう思い込まされると、グッタリする。楽しくない。逃げ出したくなる。気が重くなる。うっかりするとウツになる。心を病む。そのくらい、人間は「ねばならない」になった途端、しんどくなる。

では、どんな時に人間は働くこと、学ぶことを楽しむのか?それは子どもの様子を見ていたらよくわかる。子どもは、嬉々としてお手伝いしてくれる。実に楽しそうに学ぶ。「できない」を「できる」に変えるとき、工夫を重ね、ついに「できる」に変えることができた時、子どもは「やったあ!」と喜ぶ。

そして、子どもがお手伝いを嫌がるようになり、勉強するのを面倒くさがるのも、観察しているとよくわかる。小学校に進学し、宿題するのが当たり前、点数を取るのが当たり前、家の手伝いをするのが当たり前、になり、親が「ねばならない」で子どもをがんじがらめにするようになった時から。

でも、子どもは親に驚いてほしい。自分の工夫や成長で親を驚かせたい。それはたぶん、生まれて初めて立った時、言葉を口にしたとき、親が目を丸くして驚き、喜んでくれた強烈な体験がどこかに刻まれているから。子どもが何かできたとき、「ねえ、見て見て!」と声をかけるのはそのため。

人間は、試行錯誤を重ね、工夫を重ね、その結果「できない」を「できる」に変えることが大好き。そして、一緒に驚いてくれる人がいると嬉しい。楽しい。そうした体験があると、どんどん試行錯誤する。工夫を重ねる。そしてどんどん楽しみながら成長する。

それは子どもも、大人となった部下育成でも同じ。人間は、工夫・努力・苦労に驚き、面白がってくれる人がいると、無数の失敗を重ねてもくじけず、試行錯誤を繰り返し、工夫を重ねることを楽しむようになる。失敗を恐れず、工夫を重ねる人間は、どこまでもいつまでも成長を続ける。楽しいから。

私は、子どもの指導も、あるいは大人である学生やスタッフの指導においても、この仮説に基づいて指導するようになった。すると、嬉々として工夫を重ねる。失敗してもそれに目をつむるのではなく、しゃぶりつくすように観察し、新たな工夫を考える。だから必ずいつか打開策を見つけてしまう。

私はその脇で一緒に見ていて、面白い工夫をするねえ、と驚き、感心してみているだけ。けれどそれが、失敗を恐れない勇気、むしろ失敗を楽しむ余裕、そして工夫を重ねる意欲、工夫を重ねること自体を楽しむ心理が生まれるのを助けるらしい。

思い起こせば、私自身、そうやって指導してくださった諸先輩方がいた。私みたいに融通が利かず、自分で考える力もなく、工夫もない人間を見捨てず、辛抱強く指導してくださった方々がいたからこそ、いつしか、失敗を恐れず、工夫を重ねる楽しみに気がつくことができた。

子どもや部下の工夫、努力、苦労に驚き、面白がるというのは、あたかも指導していないかのよう。横で驚き、感心しているだけなのだから。けれど、それこそが自発的に、しかも楽しんで物事に取り組めるようにする、最高の触媒であることに、トシをとってから気がついた。

どうか、これから育っていく子どもたちが、働く人たちが、楽しんで学び、働ける社会になりますように。楽しんだ時の人間のパフォーマンスは最高。学びは深く広くなり、仕事は躍動的で活発なものとなる。楽しむことって、とても大切。

塾をたたんでから20年になる。その時子どもたちだった子らも、一番若くて30代半ば。私は彼らをうまく指導することができなかったけれど、何かの役に立ってくれれば。私の肥やしにされてしまった彼らへの、せめてもの恩返しになれば。

幸い、私の考え方に共感してくださる教育関係者がとても多い様子。若い人たちの感性はすごいなあ、と思う。私が50年かけてようやくつかみかけたものを、若い人たちはスッと吸収し、さらに凌駕していく。すごいなあ、と思う。

遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん。
そんな歌があるらしいけれど、そうした気持ちで学びも仕事も組み立てれば、日本だけでなく世界もなかなか楽しいものになると思う。ぜひ、あらゆる課題を楽しみながら、試行錯誤し、工夫を重ねて解決していけたらな、と願う。

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