苦労話は笑い話に

「ワシは自腹で新技術を開発した、だから研究者も研究費がなくても成果出せ」という意見を頂いた。その人の成果は確かに素晴らしいものだった。けれどそれだけに幾重にも残念に思った。

  1. 虐待された子どもが親になって子どもを虐待するかのような構図に気づいてない。

  2. せっかくの功績がマウンティング(自分の方が上だと主張する示威行為)の道具に成り下がっている。

  3. 人を見下せば敬意を得られるどころか嫌われるという単純な人間心理に気づいていない。

などで非常に残念。しかしこうした人は多い。「自分は艱難辛苦を乗り越えて成功した、だからお前も」

正直、私もこの状態に何度も陥ったことがある。なぜこういう言動を取ってしまうのだろう?
恐らく、幼児の「ねえ、見て見て!すごいでしょ!」と同じなのだと思う。「ぼく、こんなに頑張ったよ。ほめて!」
もしかしたら、アッケラカンとそう口にできたほうが、苦笑されつつもほめられやすいかも。

しかしなぜか、苦労話をする場合は、粒粒辛苦の末に、と、重々しく話したくなる。なんか、重みづけしたくなるのかも。価値を高めたくて。でも聞く側にすると、重苦しい。聞いていてつらい。その人が大好きなのでもない限り、「聞きたくない話をする人」認定されてしまう。

少し余談。結婚する前、YouMeさん、実に巧みな話術で笑わしてくれた。その笑い話がことごとく苦労話。なのに笑える。そして笑ったあと、「こんなに苦労してるのに笑い話に昇華するなんて、すげえな、偉いなあ」と素直に尊敬した。苦労話を聞くのも苦にならず、笑ってるけど深刻さも伝わった。

つくばの方で、研究の苦労話を聞かせてほしい、という依頼があった。それまで私は、苦労話をする際はなるべく重々しく、つらそうに話していた。聞いてる方は「ああ、しんど」という顔をしてるのに気づいていたのに、改めることができてなかった。この際、全部笑い話にしてみよう、と心がけた。

そしたら、講演後の感想文のほとんどが「笑い話にしてるけど、苦労話を笑い話にまで転化するにはどれだけ精神を鍛錬せねばならないだろう」とか、「笑い話だからこそ、本当につらかったろうとしのばれた」と、こちらの苦労に理解してくださる方ばかりだったことに驚いた。

そうか、苦労話は笑い話にしちまった方がいいんだ!聞く側も楽しく聞いていられるし、気軽だからこそ、苦労話を追体験してる気分になるし、よく聞くからこそ、「自分ならどうするだろう?」と考えてみる気になるし。苦労話はつらそうにではなく、笑える話にしちまった方がいいのか!

大野更紗さん「困ってるひと」なんかもその一つ。難病にかかり、苦労三嘆するお話なんだけど、随所で笑える。一番つらそうなところで爆笑してしまう。「いや、そこ一番つらくて苦しいところやん?何でそこでその表現?」意外な描写に爆笑してしまう。笑ったあと、ウーム、と考え込む。

「自分は苦労した、だからいたわれ、敬え、苦労話を聞いて身悶え、私を尊敬しろ」は、幼児が親に向けて「ねえねえ、ほめて!僕、すごいでしょ!」と同じ心理から来ているように思う。幼児の親ならそうしたアプローチでも「頑張ったね」と言ってくれるかもしれないが、他人だとそうする義理はない。

他者に自分の苦労話を聞いてもらうなら、せめて笑い話に転換する一手間は必要なのかもしれない。笑える話ならみんな聞きたがる。聞いた後で「そんな苦労を重ねたうえで、自分は笑い話に転化できるだろうか?」と考えてもらえばよい。何なら他人だから考えてもらう必要もない。でも、案外笑い話なら。

腕組みして「うーむ・・・!」と考え込んでくれる場合が多い。苦労話も功績話も、ドジな面も絡めたコーティングをした上で提供するようにしていきたい。そうすればせっかく苦労して得た知恵を、他の人にも伝播できるようになるのではないかと思う。

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