「教える」より「観劇」

教える者が教わる者より有能で知識も豊富でなければならない、という「呪い」は、一つの思い込みで強化されているところもあるかもしれない。それは「自分が教えなきゃいけない」。
私は子供や学生、スタッフを指導する際、私から学ばなくても構わない、と考えている。

「本にこんなの書いてた」「テレビでこんなのを耳にした」「これに詳しい人がいるというので聞いてきた」。私を差し置いて学んでくるのを、私は歓迎している。「おお!それは知らなかった!」と、私は自分の無知ぶりをさらけ出し、その人が自ら学ぼうとしているその意欲に驚く。

すると、その人は私以外のところからどんどん情報を吸収し、学んでいく。私はその様子に驚いているだけ。その人自身が勝手に学んでいるだけ。やがて私の許を離れても、自ら学ぶ楽しみを知っているから、勝手に成長していくことだろう。

「教える」という行為は、「弟子に恩を着せる」という裏の「呪い」がつきまとっている。このため、教えることに熱心な人は、自分の教え子が自分以外の人間から教えを受けるのを嫌がることがある。自分以外に教えようとする人に「余計なことを吹き込まないでくれ」と怒ったりする。

これは、学びの供給源を自分だけに限定し、自分だけに依存させようという隠れた企みがあるためだと思う。教え子を自分だけに依存させ、がんじがらめにしたいという欲望が隠れているのだろう。つまり、純粋に教え子の成長を望んでいるのではない。その成長は自分だけの功績に帰したい欲望が隠れている。

私の子どもは二人とも、2歳になる前から字を書き始めた。教えてはいない。ただ驚いただけ。すると熱心に字を書こうとし始めた。でも教えなかった。Fは最初のうち、横棒がたくさんあって櫛のようで面白かった。やがて、横棒は2本でよいらしい、と気がついて、Fも書けるようになった。

漢字を教えたこともない。しかし子どもはいったいどこで学んでくるのか、難しい読み方も覚えてしまう。私やYouMeさんは「そんなのも読めるの!いつの間に!」と驚いているだけ。子どもも、できるだけ親の目に入らないところでコッソリ学ぼうとしている節がある。親以外から勝手に学んでいる。

それでよいのだと思う。「指導」というと、教える側と教えられる側の上下関係があるようだけれど、むしろ「観劇」に近い関係でよいのでは、と思う。子どもという役者がどこで学んできたのか、新しい芸を披露してくれることに驚きの声を上げ、歓声を上げる、そんな観客として楽しんでいる感じ。

ただそばにいて、その成長を楽しませてもらうだけ。自分が教える必要はない。子どもが勝手に学んでいくのを、そして成長していくのに、驚かしてもらい、面白がらせてもらう。そうした「観劇」なのだと思ったほうが良いのでは、と思う。

でも、その「観劇」が結構大切なのだと思っている。お客さんがいるからこそ役者はやりがいがあるように、多くの子どもは「視線を食べる」生き物。子どもは「ねえ、見て見て」とよく言う。自分のやっていること、できなかったことができるようになったその瞬間を見ていてほしい。

子どもは大人の視線を食べて成長していく。だから、「観劇」なのだと思う。「こんな新しい芸を身に着けたよ!」と披露してくれるのを見せてもらい、驚き、歓声を上げる。そうした応援団でいたらよいのでは、と考えている。

「教える」という行為は、教えという恩を施すことによって、恩で縛り、自分にだけ依存させ、一種の子分を作ろうという企みが潜むことが多い。そう考えると、「教える」という行為が本当に子どもの成長を第一に考えた行為なのか、考え直してみる必要がある。

いっそ、「観劇」だと思って接してみてはどうだろう。実に楽しい。面白い。子どもはどんどん成長していく。学んでいく。変化していく。こちらが驚き、歓声を上げれば、ますますハッスルして学び、成長していく。役者と観客くらいに思って、子どもと接してみてもよいように思う。

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