オーバーラップ仕事とジョブ制 「ありがとう」と「それはお前の仕事だろ」

弟の個展会場に、後に結婚することになるYouMeさん連れて行った。するとギャラリーの女主人の方が私を手招きし、「あの子と結婚するの?」と。私が頷くと、「女はね、ありがとうと言われるといくらでも頑張れる生き物なの。だからありがとうと伝えるのを忘れないようにね」とアドバイス。

一緒に暮らすようになると、YouMeさんが料理や洗濯をしてくれるように。私は一人暮らしが長く、本来自分でやらなければならないところ、やってもらえるので「ありがとう」と言うように。もちろん、アドバイスが効いてる。そしたら。

私の大好きな料理を作ってくれたり、果物を買っておいてくれたり。何が好きなのかを覚えてくれていたり。「うわー!ありがとう!」と伝えると、ますますYouMeさん、いろんなことしてくれて。もはやアドバイスされたからではなく、心からYouMeさんに感謝して、ありがとうが頻発するように。

私もYouMeさんも一人暮らしが長かったこともあり、家事は全部自分が本来しなければならないこと、という意識がある。だからできるときにできる人がやると、それは本来自分がやるべきだったのにやってくれたの?ありがとう!と、互いにありがとうが一日に何度も行き交う毎日になった。

ありがとうだらけの毎日がもう11年続いている。結婚当初は、YouMeさんに「いつまで続くかなあ〜」なんてからかわれたり脅されたり(笑)したけど、互いにありがとうを毎日言い合えるのは、大変幸せなことのように思う。

「ありがとう」を言いやすい理由、それはお互いに「すべての仕事は本来自分がやらなきゃいけないこと」という意識だからかもしれない。YouMeさんも私も、長い一人暮らしで、仕事もして、家に帰れば料理も作り、たまに掃除し、洗濯しなければならない毎日だった。

なのに、一緒に住んでるからと言って、自分の分までやってくれる。こんなありがたいことはない。まさに「有り難い」。だから「ありがとう」が自然に出るようになったのだろう。

夫婦でよくケンカしてる人の話を聞くと、「これはお前の仕事だろ?」というフレーズが頻繁に出てきて、売り言葉に買い言葉になってる話をよく聞く。自分の仕事、相手の仕事がスパンと分かれていて、しかも相手の仕事の出来、熱心さまで評価して、ケチをつけたりしてるみたい。

私とYouMeさんは、一応分担が分かれてはいるのだけど、「本来自分が全部やらなきゃいけないこと」という意識が両方ともにある。仕事の領域がオーバーラップ(重なる)している。だから相手が普段やってくれていることも「自分がやらなきゃいけないところ、やってくれてありがとう」になるのだろう。

ジョブ制が検討されてるそうたけど、大丈夫かな、と思う。ジョブ制では担当する仕事の領域をきれいに決めてしまうという。そんな場合、「ありがとう」は出てくるのだろうか?むしろ「これはお前の仕事だろ」が出てきやすくなりはしないだろうか。そんなことを言われた日には。

言われた方もあら探しを始めるだろう。「なんだ、偉そうに言って、お前もやってないじゃないか」と、心の中で罵るだろう。「あーあ、上司とはいえ、あんなやつのために頑張るだなんてバカバカしい」とならないだろうか。こうなると、見えないところでサボり、クビにならない程度に手を抜くのでは。

「仕事のオーバーラップ」は、「ありがとう」を誘発しやすいように思う。あのとき自分の仕事を救けてくれた。今度は自分に少しゆとりがあるから、お返ししよう。こうした関係になれば、自然に「ありがとう」が相互に出てきて、しかも今度は自分が助ける番になろうとするように思う。

自分に「ありがとう」と言ってくれる存在はありがたい。「それはお前の仕事だろ?」と言う人ばかりの世の中で、ありがとうなんて言ってくれるの、嬉しい。「それはお前の仕事だろ?」からの仕事なんかうっちゃって、「ありがとう」を言ってくれる人の仕事を優先したくなる。だって、楽しいから。

「ありがとう」があふれるオーバーラップ仕事は、仕事が楽しくなるし、互いに感謝と敬意が持てる。楽しければ仕事の意欲も全然違ってくる。自分の得意な仕事は進んで取り組み、相手に貢献しようとする。得意なことは仕事が早くて丁寧。だから相手も驚くし、感謝してくれる。

オーバーラップ仕事は、自然に得意な分野が互いに見えてきて、仕事の分担もある程度決まってくる。でも、「あ、手が足りなさそう」と見えたら、すぐさま救援に駆けつけてやる、と手ぐすね引いてる。その姿勢がわかるからありがたいと思うし、「ありがとう」も出てくる。

ジョブ制は本当に生産性を上げるだろうか?もし上げるとすれば、それはすぐクビにできるようにすることで労働者を脅し、その恐怖で低賃金でも文句を言わせないようにすることではないか。つまり、賃金を抑えることで生産性を上げようという、コストカットが真の狙いじゃないか。

それでは賃金が下がるだけで、結局、世の中全体が殺伐としていく気がする。
それよりは、オーバーラップ仕事にすることで「ありがとう」であふれる職場にし、自然と得意な仕事に分担が分かれることで全体の効率が上がり、しかも余裕のあるものがヘルプに入ることで、全体に余裕を確保する方が。

楽しくて、嬉しくて、やりがいがあって、生産性も高くて、ゆとりも生みやすい働き方なのではないか。
「生産性が低い、だからもっと生産性を上げなければ」というフレーズは、数字上の生産性だけに意識をフォーカスさせ、現場を丁寧に観察することを難しくしているのではないか。

夫婦間で「それはお前の仕事だろ」が、いかに家庭を冷え込ませ、やる気を奪い、楽しさを打ち消し、「なんでこの人と一緒になったんだろう?」と疑問が出てきてしまうのと同じように。仕事の領域をスパンと分けるのは、果たして人間心理の現実と、うまく整合するのだろうか?

もっともっと、人間の現実をよく観察し、人間心理がうまく回りやすい仕組みを工夫してみたい。ありがとうであふれ、助け合い、得意なことで仲間を助け、感謝しあい、職場に行くのが楽しくて仕方ない。そんな職場の生産性が低いわけがない。

なぜなら、そういう職場は工夫であふれるから。失敗も互いにカバーしあい、失敗したものは工夫を次に重ねることで失敗しにくくなる。互いの助け合いが工夫を生み、変化をもたらす。

「ありがとう」とオーバーラップ仕事は、日本が得意としてきた働き方。マネジメント。それを安易に投げ捨ててよいものか。まずは夫婦の世界から始めてみるのをお勧めする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?