「親になる」ということ

教師や警察官の子どもがグレることがあるのはなぜか?をつぶやいたところ、思わぬ反響があった。反響の中には、社長や弁護士、公務員も付け加えてほしい、という声も。家で社長としてふるまい、子どもを部下扱いするのだという。家に「親」がおらず、他の何かがいる、という形では共通。
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ただし、親が教師でも子どもが健やかに育っているご家庭はたくさんあるし、私もたくさん事例を知っている。そうしたご家庭では「親」がいる。たとえ外の世界では教師であっても、子どもに対しては「親」になる。そうした場合、別にグレることもないし、スクスク素直に育つようだ。

では「親になる」とはどういうことなのだろう?
特別養子縁組で3人の子どもを育てている方がNHKの番組で取り上げられていた。3人目のその女の子は、施設にいる間はお箸で食事もできるし、トイレも一人で行けるようになっていた。人懐こく、おとなしい子だった。しかし養子に入ると。

まるで赤ちゃんのようにご飯をばっ散らかし、おしっこウンコ垂れ流しでオムツに逆戻り。いわゆる赤ちゃん返りを起こした。また、非常に反抗的になり、強くかみついて母親(養母)に深く歯形が残るほど。手のつけられない状態に。でもその母親は、「必ずくぐらねばならない試練なのだ」という。

子どもは無意識のうちに、「この人は何をしても自分を見捨てないのか、自分の「親」でい続けてくれるのか」を試しているのだという。赤ちゃん返りし、ウンコもおしっこも自分でできなくなり、オムツ替えをしてもらうようになっても見捨てないのか。一人で食べられなくなっても見捨てないのか。

なぐる、噛むといったひどいことをしても自分を捨てようとしないのか。この人は、そんなみっともない自分、情けない自分をさらけ出しても「親」でい続けてくれるのか。それを全身全霊で試してくるのだという。そしてそれをくぐり抜けてなお、決してこの人は見捨てない、という確信を持てた時。

ようやく「親子」になり、自分のみっともない姿、正直な感情をそのままにぶつけて、でも心からこの人は親なのだ、ずっと自分の親でいてくれる人なのだ、と安心するようになるのだという。
「親になる」とは、何があろうとあなたは私の子どもである、という受容する姿勢が根底にあるのだろう。

施設にいるときは箸で食事もできたし、トイレも一人でできたし、礼儀正しかったという。外面的には「よい子」だ。しかしそうした振る舞いをしていたのは、「他人」の中にいたからなのだろう。そして養母に子どもとして引き取られた時、「他人」ではない「親」になってくれるかを試したのだろう。

どうやら子どもは本能的に、素のままの自分を受け止めてくれる存在を求めているらしい。赤ちゃんはしばらく、自分では何もできない。食事をとることも、排便の始末も。すべて親にやってもらうしかない。そうした何もできない存在を受容し、しかも好きでいてくれる。それが「親」なのかもしれない。

しかし子どもが言葉を話せるようになったあたりから、「親」がいなくなってしまうケースがある。それは教師や警察官に限らず、「世間体」や「他の人の目」を気にするタイプの人にどうやら現れやすいように思う。「子どもを見事に育てた親」として賞賛されたい、という気持ちを強く持ってしまうと。

子どもにとって「親」はいなくなってしまう。子どもが何かよい成績を取ったとしても「それは私の指導のたまもの」と親が功績を奪ってしまう。子どもの頑張りを自分の手柄にしてしまう。子どもが小さい頃はよくわからないでいるが、思春期になるとそうした親に強く反発してしまうケースをよく目にする。

子どもは親に驚いてほしい。初めて言葉を話したとき。初めて立ち上がった時。親は手放しで驚き、喜んでくれる。何か一つできることが増えると、親はそのつど驚き、喜んでくれた。そのことを子どもはきっと、どこかで強烈に覚えている。だから「ねえ、見て見て」というのが幼児の口癖なのだろう。

しかし、もし親が「子育ての成功者と呼ばれたい」「子育ての成功で自分が賞賛されたい」という欲望を持ってしまうと、子どもが何か一つできても、それに驚くのもそこそこに、自分の功績が一つ増えたと喜ぶ。これで一つ見栄を張れると嬉しがる。この辺で子どもはあれ?と首を傾げ始める。

逆に、自分の期待する水準に達していないと厳しく指導するようになってしまったり。このままでは「うまく子育てできている親、という称号が失われてしまう」とおびえて。なんとか子どもが頑張って成績を上げても「私のおかげ」になって、子どもの頑張りに驚く感じがなくなってしまう。

こうして、子どもの成長に親が驚かなくなり、「親の私が頑張ったからだ」「私の指導のたまものだ」と手柄を親が自分のものにしてしまうようになると、やがて子どもは反発し、グレるというケースが生まれてくるもののように思う。

恐らく子どもは親に、自分のことを全面的に受容してほしい、と願っている。そして、自分の成長に驚き、喜んでほしい、と思っている。全面的な受容と「驚く」こと。この二つが、もしかしたら「親になる」ことの条件なのかもしれない。

私は子育ての本を書く際、ひどく筆が進まなかった。一つの恐怖があったから。こんな子育ての本を書いたら「自分は子育てのうまい人間だ」というフリを続けなければならない、という呪いを自分にかけてしまうのではないか?外面的な飾りを維持しようと必死になってしまうのではないか?と。

一つの解決策を見つけて、ようやく筆が進むようになった。あとがきに、自分も子育てに悩む親でしかないこと、何をどうしたらよいのか手探りで進むしかない、限りある身の人間に過ぎないことを、きちんと明言しよう、と。そうすることで、子育てが分かっているフリという呪いから抜け出すことにした。

私は我が子に対するとき、社会的地位だとか、過去に本を書いたことだとか、そういったものをすべてかなぐり捨てる。今、目の前の子どもと、私がいる。ただそれだけ。ただそれだけから出発し、いま、自分が何をできるのか。そのつど考える。外から借り物を持ってこないように気をつけている。

朝ドラで「カーネーション」という、小篠三姉妹の母親、小篠綾子さんをモデルにした番組があった。この番組を振り返る形で小篠姉妹が母親のことを語っているのが面白かった。母親はともかく服を作りたくて、その時間を確保するために子どもたちにたくさんの習い事をさせて家から出していたという。

これだけ聞けば育児放棄のようだが、子どもと話すときは「全集中」していたという。大好きな仕事のことも忘れ、世間体も何もかもみんな頭から追い出し、目の前の一人の子どもだけを見て、そして母親も、たった一人の素の人間として対峙して。だから、寂しいと思わなかったという。

「八方美人と言われた」といって、悩みを相談されたことがある。どの人ともうまくやろうとしていたら、誰にでもいい顔をする八方美人だと批判された、と。これは子育てでも起きることで、「○○ちゃんばかりひいきにして!」と、子どもが腹を立てる話もよく聞く。

みんな公平に接したら八方美人だと言われ、誰かの話を集中して聞いたらえこひいきと言われ。いったいどうしたらいいんだ?と相談を受けて、私も答えあぐねた。そんなとき、教育テレビを見ていたら、ハッとするような言葉に出会った。「公平な偏愛」。

その教育者によれば、「子どもが複数いる場合、まず目の前にいる一人の子を偏愛してください。全身全霊でその子と対してください。そうした接し方を、どの子にもしてあげて下さい」と。これは、小篠姉妹の母親の姿勢そのもののように思う。対している子どもに全集中。子どもが複数いるなら、その全集中の時間を、たとえ短くてもよいからどの子にも公平に。

たとえ一日の短い時間であっても、自分と対しているときには、世間がどうのとか見栄がどうのということも忘れ、兄弟姉妹の他の子の存在も忘れ、自分だけを見てくれる。全集中して自分と対してくれる。そうした接し方をしてくれると、子どもは寂しいと思わずに済むらしい。

そして、そうした「偏愛」をどの子にも公平にすると、つまり「公平な偏愛」をすると、親が特定の子をえこひいきするという風には感じないらしい。
恐らくだが、例えば親が教師で、子どもがその職業故に親とうまくいかないケースの場合、子どもに「全集中」ができていないのかもしれない。

この子が成績悪かったら世間体が悪い、見栄を張れない、恥ずかしい、という夾雑物が子どもとの間に挟まって、その夾雑物を通じてしか子どもと接することができなくなってしまったとき、子どもは「親」ではなく「教師」を感じてしまうのかもしれない。

また、教師かどうかは別として、親が子どもをコントロールしようという欲望を持つのも、事態をややこしくする。子どもは親に、自分の成長で驚いてほしいのに、親が子どもを粘土細工のようにこねくり回そうとし、うまくいったら自分のおかげだと言いたがる。こうしたとき、子どもは反発する。

子どもは親に驚いてほしいのに、親が子どもを自分の作品として自慢したいとき、親は子どもの成長を自分の手柄にしてしまう。成長に驚くのではなく、「自分のおかげだ」と自慢のタネにしてしまう。子どもは、それがたまらなくイヤになってしまう。親の道具になりはてた気がして。

親は、子どもをこねくり回そうという欲望を放棄する必要があるように思う。先回りして子どものためにと準備するのもやめたほうがよいように思う。それよりは「後回り」すること。子どもが成長を見せたことに驚き、面白がること。

人間というのは、未来を予想して先回りして準備すると、うまくいったときに「自分のおかげだ」と思いたくなってしまう生き物らしい。しかし子どもは、親にそれをしてもらいたくない。それだと、親が全部自分の手柄にしてしまうから。そして手柄自慢に忙しくて、自分の成長に驚いてくれなくなるから。

だから、親はあえて子どもと同じ地平に立ち、「いま、自分がこの子と同じ材料と知識と技能しかない場合、いったい何ができるだろう?」と、大人のアドバンテージを捨てて、同じ土俵に立って子どもを眺めると、子どもは意外な行動に出て大人を驚かしてくれる。

そうして、子どもが常に先回りし、親は「後回り」して、いつも子どもに驚かされる立場になると、子どもは生き生きとして、次も親を驚かそうと企む。工夫を重ね、新たな発見をしようとし、未知に挑戦を続ける。そのための努力を欠かさず、苦労もいとわなくなる。親はそれに驚かされ続けることになる。

子どもを自分の力でどうにかしようという企みを捨てること。子どもが自分自身の力で切り開いていくことを「祈り」、待ち続けること。そしてついに動き出したとき、自発的に動いたそのことに驚く。それが失敗であろうとなんであろうと、自ら動き出したことに驚く。

すると、子どもは失敗を恐れずに、挑戦し続けることを楽しめるようになる。発見することを喜びとする。工夫を続けることを楽しむようになる。そのための努力や苦労をいとわなくなる。親が驚いてくれるから。それが楽しくてならないから。

「親になる」というのは、そういう心構えのことなのかな、という気がする。教師や警察官である親であっても、子どもが健やかに育っているケースを見ると、子どもをどうこうしようという企みを諦め、ただ健やかな成長を祈り、自発的に動き出すことに驚く、ということができているように思う。

しょせん、社会的立場は外側の飾りでしかない。その飾りを世間が賞賛し、価値を認めてくれるとしても、それは家族の中では意味をなさない。そうした外面的なものが無効な関係、それが家族なのだと思う。素の人間のまま向き合う。それが「親になる」ということなのかもしれない。

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