「ダンゴムシは虫です」から始まる連想

重箱の隅をつつくようで申し訳ないけれど、記事のタイトルにもなっているので。ダンゴムシは虫です。ついでに言えば、トカゲやヘビも昔は虫でした。先生間違っていません。漢字で書くとトカゲは蜥蜴、ヘビは蛇。虫は昆虫とは違い、学術的な言葉じゃないそうです。
https://maidonanews.jp/article/14750822

この記事の女の子は、虫=昆虫ととらえたのでしょう。その意味では女の子も間違っていないのですが、ダンゴムシを虫と呼ぶことは、特に間違っていません。ただ、生徒と先生が対立してしまったようで、そこが悲しいですね。

私も小学校1年生の時、似た出来事が。授業で「チューリップは春に咲きます」と習いました。私は手を挙げ、「1年中いつでも咲きます」と。先生は春に咲く、と私にわからせようとしました。でも私は季節を問わずに咲くと言い張り、先生は怒り、私は泣き。授業が終わった後、職員室に呼ばれました。

先生は私が強情を張ったのが不思議だったらしく、「なぜ年中咲くと言い張ったの?」と私に尋ねました。私は授業中ではうまく説明できなかった、ハウスで栽培するなら年中咲かすことができる、と、つい先日聞いたばかりだった、ということをようやく説明できました。すると先生は。

「篠原君、それは先生がいけなかった。ごめんなさい」と謝ってくれました。そして教室に戻り、みんなに「さっきの先生の態度は間違っていました」と言い、なぜ私が年中咲くと言い張ったのか、その理由はとても納得のいくもので、篠原君は一つも間違ったことを言っていなかった、と謝ってくれました。

「こうして先生も間違うことがあります。みなさんも、自分の思ったことを怖がらずに言ってほしいです。先生もこれからは、自分の方が間違っているかもしれないと気をつけるようにします」
この経験があったから、私は物おじせずに意見を言うようになったのかもしれない。

思い出しついでに言うと、私はその後も複数、そうした経験がある。中学の理科で「始祖鳥」と漢字で書いたらバツをくらった。先生の言うには、教科書でカタカナで習っているのだから、と。私は証拠がある、と言った。「証拠を持ってきたらマルにしてやるよ」と先生。

私は図鑑をひっくり返し、学研の「地球」という図鑑に始祖鳥と漢字で書いてあるのを再確認し、翌日、学校に持って行った。先生は約束通りマルに変えてくれた。

高校で冬眠のことを習った。厳しい環境を生き抜くために生物がとる行動のいくつかのうちの一つ。授業中、私は指名されて、「夏眠」と答えた。すると先生はハイハイ、冗談はその辺で、というので、私は根拠がある、と言った。「根拠を示せばお前が正しいと認めてやろう」と先生。

私は図鑑をひっくり返し、暑い地域では爬虫類が砂の中に潜って静かにしている「夏眠」が紹介されているのを再確認。翌日先生に見せて、正しいと認めてくれた。
その後の定期テストで、クラスメートの大半が「夏眠」と書いたのは言うまでもない。

日本史の歴史の授業で、先生が「絵踏(えふみ)」と教えた。私は教科書や参考書をひっくり返してみたが、どれも踏絵(ふみえ)。「先生、踏絵の間違いでしょ」と言った。先生はどちらでもいいんだ、と言った。「なぜなら漢文でも絵を踏む、だろ」と。「先生、漢文では目的語が後ろになります」

先生たまりかね、「社会の先生たちの部屋の俺の机に「絵踏」と書いてあるこんな資料があるからもってこい」と言い、私は授業中に飛び出して先生の言ったとおりの資料を持ってきた。確かにそれには「絵踏」とあった。

このように、私は先生の予想していないところを突く嫌な生徒だったわけだけど、上述した様子からうかがえるように、先生たちはみな度量があった。特に「チューリップ」事件の先生は、小学1年生に頭を下げる、という立派な先生だった。今も尊敬している。できるかな?自分に?と。

チューリップ事件は、私も大きなことを学んだ。授業中に喜び勇んで「年中咲きます」と言ったものの、なぜそう言ったのかの根拠をすぐに示すことができず、私は立ち往生し、先生を困らせてしまった。違う主張をするときは根拠を示したほうがいいんだな、ということを学ばせてもらった。

そしてきちんと根拠さえ示せば、どの先生も度量大きく認めてくれた。私は公立しか通っていなかったけれど、そんなに悪い先生には出会っていない(例外若干1名)。中にはひどい先生もいるだろうけれど、基本、私はどの先生にも敬意を持たずにはいられなかった。

冒頭の記事に戻ると、小学校では、昆虫とそうでない虫との区別を習う。クモは足が6本ではないから昆虫ではない、と習う。先生はそれを教える立場で、それを知らないとは考えにくい。だから、どういう経緯が授業であったのかはわからないけど、ダンゴムシが昆虫でないことは先生も先刻承知な気がする。

だから、記事から受ける印象が「ダンゴムシを虫だなんて言い張るなんて、なんて無知な教師なのだろう、これだから公立の教師は」なんて雰囲気が醸されているのに、私は違和感を覚える。記事の生徒と教師がいがみ合ったのは事実だろうけれど、現場で起きたのはまた違う理由のような気がする。

「こういうことがあるから私立に進学したほうが」と考える親御さんが、都会では非常に多いようで、都会に住む知人は、小学校から私立を目指していて、公立への深い不信感がある様子。特に東京はその傾向を強く感じる。けど、そんなに公立の先生、ひどいのだろうか?と、若干首をかしげる。

うちは夫婦で話し合い、二人とも公立に通わせることにした。公立の先生を信頼し、お任せしよう、と。先生もいろんな人がいるかもしれない。しかしそれも学びの一つではないか、と考えた。社会に出ればいろんな人がいる。相性の悪い上司になるかも。そうした人と付き合うのも大切な学びだろう、と。

何より、いろんな職業の保護者がいて、その子どもらと交流できるというメリットは、私立では難しい。私は愛知県で仕事をしていた時、市民講師として中学校や高校に授業しに行ったことがある。とある有名私立中学校に講義に3回ほど行ったことあるのだけれど。

休み時間に子どもたちが話しかけてくれて、私が研究者だと知って、「うちの親は医者なんだけど」「うちは弁護士」「私は経営者」・・・はいはい、えらくハイソなご家庭ばかりで。その学校の先生によると、そうした裕福なご家庭が多いのだという。

私は度々、つくばで研究しないか、と誘われたことがある。誘い文句の一つが「つくばは、石を投げれば研究者に当たるところだから、公立に通う子も親が研究者というのが多く、成績もべらぼうに高い子ばかり」と聞いた。

共同研究相手が関西に集中しているという理由で断っているのだけれど、研究者という特殊な職業しか子どもたちが知らないというのも、何か私の趣味ではないな、とも思った。社会はいろんな職業で成り立っていることを、子どもにも知っておいてほしい、と思うから。

私は職場近くの古民家で住んでいるのだけど、引っ越した当初、玄関のたたきが、雨の後はいつも水浸し。戦後まもなくに建てられた古い家だから雨漏りだなあ、と思い、瓦屋さんを呼んで修理を依頼した。すると、あっという間に原因を特定した。「雨漏りじゃないよ、雨どいの排水がおかしかっただけだわ」

「どこも直してないからお金は要らない」と帰ってしまった。いやいやお呼び立てして時間も(あっという間とはいえ)とったのに、と思ったけどさっさと帰ってしまった。私は雨漏りだとばかり思い、散々観察したのだけれど、さすがプロは違うなあ、と感心しきりだった。

向かいの家は農家。うちの庭に巨岩があって、邪魔で仕方なかった。業者を呼ぶしかないか、と思っていたら、その農家の方が木の棒を2本持ってきて、てこの原理でどんどんずらし、ついにかなりの距離を動かした。
私も、陶芸家の弟もマネしてみたが、ビクともしないのに。コツをうかがうと。

「岩全体を見て、重心がどこか見当をつける。てこの当たった場所から重心に向かって力がかかるように加減するのがコツ」へええ!言われた通り、重心のあたりをつけてから、てこの力のかかる場所から重心に向かって力がかかるようにすると、巨岩が動いた。へえええ!

社会はいろんな職業で成り立っている。その人たちがそれぞれの持ち場で職分を果たしてくれているから社会は回る。私は、鉄道で一番大切な仕事の一つが、保線だと考えている。誰も電車に乗らない深夜に線路に異常がないかを調べる、非常に地味な仕事。目立たない仕事。だけど。

私たちが安心して鉄道に乗れるのは、夜中に線路の異常を見逃さず、修復してくれる保線の仕事がしっかり行われているから。ついつい、鉄道では新車両とか、運転手とか車掌とかがスポットライトを浴びる。けれど、保線がいい加減なら鉄道会社は基礎から揺らいでしまう。

飲料会社なら、品質管理が非常に重要。新商品のジュースを開発するのは目立つ仕事だけれど、もしハエ一匹、髪の毛1本でも入っていたら、どんな新商品も買われなくなる。会社の屋台骨を支える重要な仕事の一つは、品質管理の人々。

なのに品質管理は、1年混入がなくてもほめられることがなく、異物混入があると叱られる。ほめられることがなく、叱られることが多い職業。それでも誇り高く仕事をしてくれている人たちがいるから、私たちは安心して飲み物を飲める。食べ物を食べられる。

私は、勉強ができることがそんなに大切なことなのか、とも思う。他方、学ぶことが好きで、楽しめることはとても大切だと思う。学ぶことが好きであり、楽しく取り組めるなら、それぞれの子どものペースで進んでいく。スタートダッシュの早い子が、あとあとまで成績が良いとは限らない。

私はその点、小中は成績が悪かった。勉強が嫌いだったから。中学校だと定期テストの前には1週間部活が休みになるのだけど、もちろん勉強なんかせずに親戚や友達とソフトボールをして遊んでいた。図鑑を読むのは好きだったけれど学校で習ったことは覚えようとは思えなかった。

中学2年生の11月11日、私は学び始めるきっかけを得るのだけれど、それはまた別の機会に。
ともかく、私はその日から嫌々、でも徐々に勉強するようになり。けれど地元の1番高には全く手が届かず、2番高に。けど、担任からは「落ちるから3番高にしておけ」と最後まで説得されるような成績。

勉強ができるようになるのに、私は大変時間がかかった。そう考えると、成長する時期というのはその子によってまちまちだと思う。
私が始めた塾に、学年最下位クラスだったけど性格の良さで高校に進学できたものの、やはり成績が悪すぎて進級が難しい、という生徒が来た。

その子はいわゆる「ケーキの切れない少年」(もう高校生だから青年と言ったほうがいいかも)だった。円を三つに切ってみろ、と言われても、「ケーキの切れない非行少年たち」という本の帯にある通りの切り方で、もう無茶苦茶。全然均等に切れなかった。

たくさんの円の紙を用意して、たくさん切らせた。ある日、その子は開眼した。「必ず円の真ん中まで切れ目を入れたらいいのか!」そのコツに気がつき、納得した途端、それまでできなかった分数が解けるようになった。その子は一人っ子で、ケーキを切ったことがなかった。

それでも高校生ともなれば、友達とおやつを分け合うなどの経験の蓄積があるため、一度納得ができると、そうした経験と結びつき、たちまち分数を理解できるようになった。小学2年生の内容からやり直し、中学3年生まで終えるのに半年強。しかしやり終えると、以後、高校の成績は心配なくなった。

その子は高校卒業時に、給料をもらいながら自動車の整備技術を学べる専門学校を受けると言った。その高校から合格者を出したことがなく、給料出るだけに倍率が高い難関。しかしその子は合格。中学・高校で学年最下位クラスで、分数のできなかった子が。

塾で子どもを指導していてうまくいったケースを考えると、「教えない」方が良いらしい、という経験則が見えてきた。教えるよりは、その子が分からなくなったところまでどんどんさかのぼり、確実にできるところから、教科書をやり直す、というやり方。

すると、分数のできなかった子が、解けるようになる。速度の問題はいつも距離と時間を間違えて解いていた子が、解けるようになる。因数分解ワケワカメと言っていた子が、解けるようになる。「できない」が「できる」に変わっていくので、学ぶことが楽しくなる。勝手に学ぶようになる。

学ぶことを楽しむ気持ちを取り戻すのを最優先すれば、そして「できる」までさかのぼり、少し背伸びすればできるようになる「できない」から始めれば、子どもは再び学ぶことを好きになる。楽しめるようになる。原則、私はそう考えている。

人が学びたくなるのは、時期がある。事情を抱えている場合もある。だから、あまり焦らないほうがよいように思う。分数が分からなかった子も、半年強で中学3年生まで全部理解できるようになるのだから。

日本はかなり格差が広がり、貧富の格差の大きさは非常に問題。これを是正するには、公立の学校の役割が非常に大きい。なのに公立をけなすような空気に誘導されかねない記事がよく見られるのは、少し私は悲しい気もする。ただ、先生に明らかに問題がある場合も確かにある。

スウェーデンの小学校を見学したことがある。先生と生徒だけでなく、親御さんたちが勢ぞろいしていた。日本人が来るから、という理由だけでなく、親御さんが集まる機会は結構あるのだという。で、子どもも一緒にいる中で、これからのクラスのことを先生と一緒に語り合うのだという。

これはいいな、と思う。問題になりやすいのは、「先生がクラスの王様」の構造があるときではないか。先生が生徒に一方通行で教え、生徒はそれをありがたく聞く。保護者はたまの面談で先生と会い、基本、先生の機嫌を損ねないように、本音を言えないまま、短い時間が終了してしまう。

スウェーデンのその小学校では、先生がクラスでの課題を披露し、親や子はその問題をどう解決するか話し合っていき、クラスの当面の方針を決めていくのだという。民主主義はこうして行われるのか、と私は感心した。これだと、教師の暴走というのは起きにくいように思う。

課題は、日本の親御さんは忙しすぎること。夫婦共働きも少なくない。いや、多い。面談に出席するのも大変な人がいる。そんな日本だから、PTA活動や子供会の活動を「同調圧力」として迷惑がる論説もネット記事でたくさん。スウェーデンの小学校は共働き当たり前だけど、小学校に集いやすい様子。

そんなこんなのいろんな問題を思い起こす冒頭の記事だった。とりとめがなくなってしまったけれど、先生と生徒、保護者が分断することなく、子どもたちを笑顔で育てられる環境にしていくことを目指したい。記事で感じた違和感は、どうやらそこにあるらしい、と思い至ったところで、書くのをやめておく。

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