科学であるためには弱点(反証可能性)を示さねばならない

現代人に最も正しいと考えられているのは科学だろう。中世西欧では長らく、キリスト教こそが正しいとされてきた。何ならこの世のことはすべて聖書に記されているとまで考えられてきた。しかし活版印刷で聖書を多くの人が読むようになると「そーでもないやん」とバレたし、何よりキリスト教が分裂した。

旧教(カソリック)と新教(プロテスタント)に分かれ、文字通り血で血を洗う争いをした。唯一絶対に正しいはずのキリスト教が2つに分裂し、互いに「うちが正しい、あっちは間違い」なんてケンカしてるのだから、何を信じてよいのかわからない、という人が現れても不思議じゃない。

デカルトが
①すべての概念を疑い、否定せよ
②確かと思われる概念から思想を再構築せよ
という、わかりやすい思想の再構築法を提案してから、合理主義の時代が始まった。同時に科学も発展し、産業革命が始まってからは科学が生活を変えてしまうのを実感せずにはいられなくなった。

今や科学は、地球を人類の住めない星に変えかねないほどの力を示すようになった。そのためか、科学に対して両極端な態度を示す人も出てきたように思う。
結局は科学が絶対的に正しいのだから、科学を信じるべきだ、という人。逆に、科学には限界があり、疑ってかかるべきだとする人。

私は、どちらも両極端かな、と思う。科学は仮説の集合体でしかない。今のところ正しいと考えてよさそうな仮説の集合体。そのうちのどの仮説が「間違ってました」と認めることになるか、しれやしない。仮説は絶対的な正しさは主張できない。だから信じ込むのも問題。

他方、科学は仮説の集合体でしかないのだから信じるに値しない、という考え方も問題。科学は絶対的な正しさを保証してくれないが、当面正しいと考えてよいと思われる妥当な仮説を用意してくれている。これを大した根拠もなしに疑うのは、いろいろ問題がある。

科学に対する妥当な態度とは、「未来永劫絶対に正しいと考えるのは問題だけど、当面は正しいと考えて差し支えない仮説」というものだと思う。だから、多くの研究者が妥当と考えている仮説は、妥当性が高いととらえて大きな間違いはない。案外、素直に考えたらよい。

ところで、科学的理論であるためには、自ら「ここが弱点です。この弱点突かれたら、潔く理論が間違いだったと認めます」という「弱点」を示さねばならないことをご存知だろうか。自らを覆えしてしまう弱点を、自ら示そうとしない理論は、科学ではない。こうした弱点を「反証可能性」という。

科学の理論は、どんな証拠(反証)が示されれば自分の理論が間違っていると認めるか、を明らかにしなければならない。自分の理論が正しいことをいくら強く訴えてもそれは正しさを強めることにはならない。どんな反証があれば覆るのか、弱点を示す必要がある。それが科学の理論が備えるべき条件。

逆に言えば、どんな証拠を示しても自分の理論が間違っていると認めないなら、それは科学ではなくエセ科学の可能性が高い。たとえば幽霊はいる、という理論に対し、「いない」と証明することは困難。反証を示せない。こういう理論は、科学は対象にしない(間違ってるとまでは言わない)。

ニュートン力学のように多くの人に信じられている理論さえ、弱点(反証可能性)を示している。もし理論通りの数字で物体が引力が働かなくなったら、それだけでニュートン力学は崩れる。このように、科学の理論は弱点をさらけ出している。自らの理論がひっくり返る弱点を。

逆に言えば、科学の理論は、弱点を突こうにもなかなか弱点(反証可能性)を突けないものが生き残っていると言える。
つまり科学は、「弱点(反証可能性)をさらけ出してるのにそれがなかなか証明されない、生き残りの仮説」の集合ということになる。

科学とエセ科学をどうやって見分けたらよいのか?それまでの人々はなかなか区別できなかった。私が子どもの頃の番組でも、心霊現象やUFOや超常現象とかを「科学的に証明した!」と宣言するテレビ番組が結構あった。「科学」を持ち出せばそれは正しいと信じられてしまうから、よくそういう話があった。

でも、エセ科学は反証可能性を示せない。幽霊はいないとは証明できない。宇宙人がいないとも証明できない。超能力がないとも証明できない。反証しようがない。こうした理論は、間違ってるとまでは言わないが、科学の対象にはしないことになっている。こうしたアイディアを、ポパーという人物が提唱。

ポパーによって、科学は弱点を示さねばならない、ということが認識されるようになったからか、自分の理論を絶対正しいと信じて疑わない人は、学会から消え去った。昔は「学会の重鎮」というのがどこの業界にもいて、自分の理論にたてつく新人を潰すシーンが結構あったそうだけど。

いかに過去に偉大な功績を示した人物でも、自分の理論が覆る反証可能性を認めていないなら、それは科学ではない、という認識が広がった。少なくとも理系科学の分野では、頑迷な「重鎮」は見かけなくなった。

東日本大震災や新型コロナをきっかけに、多くの人が放射性物質やPCR、抗体などの専門的知識に日常的に触れるようになった。一般の人でも科学的に思考することが当然の時代になりつつある。しかし、科学の作法がすべての人々に浸透しているとは限らない。

科学は反証可能性という弱点を示さなければならない。その弱点を示さない理論は科学ではない。こうした考えは、まだまだ広がっているとは言い難い。科学は、弱点を普段からさらけ出してあるからこそ、比較的素直に受けとめてよいものになっている。反証されるものはすでにされているから。

こうした考え方が一般に広がるのには少し時間がかかるだろうが、徐々に広がっていくことだろう。何せ、研究者でもポパーの名前を知らない人は多いのだから。知らなくても、そのエッセンスを受けとめている研究者は多い。やがて一般の人たちにも広がるだろう。

ただ、こうした考え方に触れる機会は、一般の人には少ない。だから、繰り返し訴える必要がある。「反証可能性を示さない、どんな証拠を示しても間違いを認めない理論は科学ではない」。このことは、何度でも繰り返し訴えていく必要があるだろう。

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