能動性という、内面に起きた奇跡に驚く

私は子育てや部下育成について「驚く」ことをオススメしてるけれど、驚くことはしばしば、スゴイことをしたときに驚くものだと思われている。すごくない、実にささやかな変化は驚くに値しないと考え、驚かない人も多い様子。そうした人から見ると、「驚く」と「ほめる」の違いがわかりにくいみたい。

私は、子どもや部下がスゴイことをしても驚くとは限らない。外側に起きたことに驚くのではないから。子どもや部下の内面に起きた変化に驚くことにしている。外側に起きた変化は、何なら無理やりやらせれば起こせる。しかし内面は他人がどうこうできるものではない。できることは祈ることくらい。

良寛さんが渡し船に乗ったときのこと。船頭はどんな噂を聞いたのか、「こいつが良寛か」と気づくと、こらしめてやろうと企んだ。川の真ん中にきたらわざと船を揺らし、良寛さんを船から落とした。
袈裟を着ていて思うように泳げない良寛さん。もう沈む、というタイミングで船頭にすくい上げられた。

そのとき、良寛さんは意外な言葉を口にした。「あなたは命の恩人です」両手を合わせ、心から感謝してる様子。
向こう岸に着いてからも、良寛さんは心から感謝し、有難がってるという風で、両手を合わせ、立ち去った。呆然と見送る船頭。自分がわざと落とし、殺しかけたのは良寛もわかってるはず。

「人殺しめ!」と罵られても当然と思い、それを予想していたのに、良寛さんの態度は全く予想外。「命の恩人」なんて、事実は全く逆なのに。考え込んだ船頭はその後、深く後悔したという。
私はこのエピソード、大変興味深く思った。なぜ良寛さんは心の底から「命の恩人」と思えたのだろうか?

良寛さんは他の場所でも殺されかけたことがある。それについてはここでは言及しないが、良寛さんは「殺されるときは殺されても仕方ない」と考える人だった。恐らく、船頭が良寛さんを殺そうと思ったならそれも仕方ないと考える人だったのだろう。ところが。

船頭の心の中に「水も大量に飲んで死にかけてる。そろそろ助けてやるか」という仏心が湧いた。たぶん、良寛さんはそのことに驚いたのだと思う。良寛さんをどうしたわけか憎み、もののはずみで殺されても仕方ないと思っていたら、船頭の心に仏心が湧いた。その奇跡に驚いたのだろう。

内面の変化は、他人にはどうしようもない。そう思うようにしろ、と命じたところで、そんな風に思えるとは限らない。むしろ逆になることも。本人自身がそう思い込もうとしても気持ちがそうならないことも多い。そのくらい、内面の変化は他人にも本人にもどうしようもない。

良寛さんは、誰もどうしようもないはずの内面の変化が起きた「奇跡」に驚き、それに手を合わせたくなったのだろう。そして良寛さんの驚きが船頭の驚きにもなり、「もうこんなことはやめよう」と心から悔いる変化をもたらしたのだろう。

私の考える「驚く」は、この良寛さんの気持ちに近い。大人に先回りされまくった子ども、指導者に叱られまくったスタッフは、心が萎縮し、自ら動こうという気持ちを失っている。気持ちが動かないことを本人にもどうしようもなく、他人もどうしようもない。内面の変化は意図的に起こすことが困難。

だから私は、子どもや部下を観察しつつ、ひたすら待つ。昨日まで見られなかった何かが起きるまで。その「何か」は何でもよい。昨日とは違う「差分」であれば何でも。
心が萎縮しているときは、新しいことを試そうという勇気を失っている。もちろん工夫することは変化をもたらすものであり、恐怖。

しかしそれを急かさない。必ず「そのとき」は来る。この世は変化で満ち溢れているから、何も起きないではいられない。
そして、本人が自ら動き出したとき、能動性が本人の中から誕生したことに驚く。「お」と。その驚きが不快なものではなく、前向きなものだと、本人も「あ」と気づく。

恐れていた「変化」が起きても周囲がネガティブな反応をしない。むしろ「驚く」という形でポジティブに捉える反応を見せたとき、変化への恐怖が少しずつ薄れていく。やがて、驚き、面白がってくれる人の存在のお陰で変化を恐怖する気持ちが薄れ、次第に驚かすことが楽しみになっていく。

「え?そんな挑戦をしたの?」次第に工夫すること、変化することが怖いものではなく、楽しいことに変化していく。隣にいる人が「お?」と、内面の変化に驚き、面白がってくれるのが楽しくなってくるから。やがて変化、工夫を恐怖する気持ちが薄れ、むしろ工夫と変化を追い求める楽しみを見つける。

私の考える「驚く」は、こうしたもの。外面的な変化ではなく、内面に起きた変化に注視する。前には見られなかった変化に驚く。すると、変化すること、工夫することの勇気が湧いてきて、むしろ楽しくなってくる。そのためには、本人の内面で起きる変化を待つことが必要。

待っている間、私は祈っている。もしかしたらそんな変化は起きないかもしれない。本人自身もどうしようもなく、私にもどうしようもない内面の変化なのだから。まるで、赤ちゃんが立とうとしたり、言葉を初めて話すのは、祈るしか方法がない親のように。

祈ってはいても、それがいつ来るのか分からない。しかしついに訪れたとき、「やったー!」と、心から驚く。本人から失われていた能動性が、いま誕生した!その奇跡に驚く。能動性は、本人が出そうと思って出るものではない。他人にもどうしようもない。ただ祈ることしかできない。

ただ、他人ができることが一つある。それが起きたとき、驚くこと。それが起きたときに驚けるよう、祈りながらその瞬間まで待つこと。そうして驚くと、本人も驚く。「あ、いま、僕は能動的に動いたのか。能動的に動いても叱る人はいないのか。むしろ面白がってもらえるのか」

近くにいる人が叱るどころか驚くようだと、能動的に動くことへの恐怖が薄らぐ。逆に、能動的に動くことで前向きな反応が得られるので、楽しくなって来る。能動性がどんどん誘発されていく。「驚く」は、能動性を誘発する触媒。

私はこんなふうに、良寛さんの祈りを参考にして子どもや学生、スタッフと対している。祈り、待つと、不思議とその瞬間は現れる。それに驚くと、能動性は瞬く間に湧いてくる。
さて、言語化に成功しているだろうか。皆さんに、この感覚が伝わることを祈りつつ。

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